オリンピック ソフトボールでご活躍の上野由岐子投手と小堀宗翔さんの記事がネットニュースに掲載されました

2021-7-25 UP

オリンピック ソフトボールでご活躍の
上野由岐子投手と小堀宗翔さんの記事が
ネットニュースに掲載されました。

▼茶道の師匠が見た上野由岐子の投球 
繊細で器用で丁寧で…
「わび」「さび」を感じる結構なお点前でした 
報知新聞社

news.yahoo.co.jp/articles/c75e3b1078efc48f87a62d87fbdd64e7b300492e

東海道旅日記「下りの記」 桑名城主

2021-7-23 UP

〇桑名城主

桑名の里に到着した遠州を,

桑名城主が出迎えています。

この年の桑名城主はこれまで本田忠政と

されてきましたが、松平定綱と改めます。

「月刊遠州」6月号でも松平定綱が紹介されており、

定綱にあてた遠州の消息などから

定綱と遠州の交友があったことがわかります。

定綱は、徳川家康の異父弟 松平定勝の3男で、

1635年から五万石の加増を受けて、

大垣藩から桑名藩にはいっています。

1万石からスタートした定綱は、

加増を希(こいねが)って11万石にまでなりますが、

それには改易された福島正則の家臣を

受け入れるためだったという話が語られています。

(ご興味ある方はこちらhttps://www.jacom.or.jp/column/2021/04/210424-50930.php)
先ほどご紹介しました通り、

定綱は同時代の文化人として知られた遠州をはじめ、

木下長嘯子や林羅山らと交流がありました。

遠州流が松平家の茶として代々継がれ、

寛政の改革で有名な松平定信の代まで伝えられました。

定綱と遠州の交友から、遠州流が松平家の茶として

代々継がれ、寛政の改革で有名な松平定信の代まで

伝えられました。

定信自身は遠州流を本にした

お家流を開いたという記録が残っています。

東海道旅日記「下りの記」その手は桑名の…

2021-7-16 UP

三重県桑名といえば、蛤の名産地です。

揖斐(いび)川、長良川、木曽川が伊勢湾に流れ込み、

川の水と伊勢湾の水が混じり合って

栄養豊富な水域となるため、

濃厚な旨味を持つ美味しい蛤が育ちます。

かつては殻付きの枯れた松葉や松笠を燃やしながら、

蛤を焼いたようです。

この焼き蛤は名物として、

伊勢参りに訪れた人々から全国にその名が

知れ渡ったと言われています。

この桑名の地名と蛤を合わせて

「その手は桑名の焼き蛤」

という洒落言葉が、江戸時代には

すでに使われていました。

やじさんきたさんの珍道中『東海道中膝栗毛』

のなかでも、二人が桑名でこの焼き蛤を肴に

酒を楽しんでいる様子が描かれています。

ちなみに、蛤の旬は春先のようですが、

桑名のはまぐりの旬は初夏から夏場の8月頃にかけて、

今がちょうど美味しい時期です。

東海道旅日記「下りの記」 10月10日 訳文

2021-7-2 UP

十日 暁の頃に出発し、桑名の里に着く。
城主(松平定綱)の出迎えを受けて、
しばらく休息し、語らう。
船着場から船頭の声がして
「潮が満ちた!追い風だ!」
というのを聞いて、申の上刻(17時前頃)、
城主に大急ぎで暇乞いをして船に乗る。
順風に帆を引き、船のゆく事
飛ぶ鳥のごときはやさである。
ある家の若者が詠んだ歌

ふねにのる 人の齢も追い風に
 いそげば申の おはりにぞつく

熱田の宿の主が出迎えて物語などし
ながら共に宿に向かい到着。
徳川義直公は大樹のごとき御慈非篤く、
世間の評判は言うまでもない。
御母堂は宗応院と号されていらっしゃる。
去る1614年の9月10日に亡くなられた。
ちょうど一周忌今日、法要を営まれるために
武蔵よりこの国にお帰りになって
物忌のお籠りになっていらっしゃると宿の主。
このことをお伝えして帰りますとのこと。

つねならぬ 世のならひこそ かなしけれ
 玉のうてなの 住いなれども

このように思いながら
宿に到着すると、時は丑の刻、真夜中になっていた。