水口に到着した遠州公一行。
東海道の宿場として定められたこの水口には、
御茶屋と呼ばれる徳川将軍の宿泊所が設けられた場所があります。
(家康公上洛の際や、家光公の妹和子が入内の際にも宿泊しています。)
この日記が記された年(1621)から12年後(遠州公55歳)の
寛永十年(1633)七月から翌年六月にかけて、城郭の拡張整備の奉行を幕府から命じられます。
寛永十一年(1634)に三代将軍家光公が、
上洛するための宿泊所として東海道の水口が選ばれ、遠州公が作事奉行を任じられたのです。
(この年の遠州公は多忙を極め、近江水口城作事奉行と同時並行で8月から13年6月まで仙洞御所御庭泉水奉行、9月から11年9月まで、近江伊庭の御茶屋御殿作事奉行。そして10月から11年6月まで、二条城本丸数奇屋作事奉行と四カ所を兼務しました。どれも将軍の上洛・滞在の際に重要な施設を担当しています。)
建物構成は京都二条城に共通し、数奇をこらしたものでした。実際に家光公が宿泊したのは、この上洛一度きりでした。
遠州公が
「四方に山を戴 渓深く水の流れ 目慣ぬ様の所也」
と称した、鈴鹿峠の坂の下に広がる景色。
ここには奇岩怪石の多い岩根山があります。
室町時代の絵師、狩野元信がこの山を
描こうとしたところ、山の姿の変化が激しくて描けず、
ついには諦めて筆を捨てたという逸話から
「筆捨山」という名前が付けられました。
東海道を往来する人々は旅の途中で
情趣あふれるこの地の風景を楽しんだといいます。
遠州公が訪れたのは現在の暦にすれば十月下旬。
山々には唐紅をかざしたかのような見事な
紅葉であったことがわかります。
自然と足早になってきて草津の里を過ぎ、
矢橋の渡しに到着し、舟に乗る。
折しもこの時は追い風が吹き、大比延を眺めて
追風に舟はやばせのわたしなれと
やふれ衣に身はひえの山
と戯言。
語らいながら、思い焦がれてきた唐崎の松、
長柄山の方に目を向けて
からさきの松ときくよりかへりきて
むかしながらの山を見るかな
ほどなくして内出の浜に到着。
此処を預かる人とは特に親交があり、
その方の厚いもてなしをうけ、
早くも故郷に戻ったような心地がしてくるようだ。
その夜は秋の千夜を一夜の心地で、寝もせずに夜を語り明かす。
三日 晴天。風は閑である。
この坂の下には四方に山を戴き、また渓は深く水の流れは
見慣れない景色である。
山の紅葉はさながら唐紅をかざしたような様子に見とれ、
足取りも自然と遅くなる。
いろいろの紅葉をかざす坂の下を
振捨かたき鈴鹿山哉
少しずつ坂を上り、山路を越えていくと、土山を過ぎ、
水口の里にさしかかる。
過ぎし三月の初めに、ここを通りすぎたことを思いだしながら、
左右に広がる田面を見て、
水口を縄代に見し あふみ路を
かへれば霜の おくて田(奥手田)となる
そこから和泉河を渡って、石部の里を過ぎたところで、
京より関迎えとして人々が出迎えてくれた。語りながら進んでいく。
心ありて時雨にくもりかがみ山
やつれぬる身の影を見せじ
などと言っていると、又雲が晴れ、曇りもない。
旅衣やぶるゝ影を見えしとて
かさきて腰をかがみ山かな
次週につづく
庄野のあたりにやってきた遠州公一行。
ここでは供の者が、名物のやき米にかけて
ひだるさに行事かたき いしやくし
なにとしやうのゝ やき米を喰
と歌を詠み、
「しもびとのうたには よしや あしや」と
遠州公の評価が記されています。
「伊勢物語」の33段(こもり江)をみますと
津の国、菟原の郡(現在の兵庫県芦屋辺り)に住む女に通う男へ、
この女が詠んだ歌が記され、
こもり江に思ふ心をいかでかは
舟さす棹のさして知るべき
田舎人のことにては、よしやあしや
と、続きます。
このことを踏まえて考察すると
遠州公はこの「伊勢物語」の33段を倣って
自分の歌を下人の歌として記したと想像することができるのではないでしょうか。
地蔵顔した遊女の客引きの様子が軽快に描かれていた関の宿。
こちらは交通の要衝であり、古代三関の一つ「鈴鹿関」が置かれていた地で、
東海道47番目の宿場町として栄え、現在でもその歴史的町並みを残す唯一の宿場です。
なぜ地蔵顔した遊女が登場したかといますと…
ここには最古の地蔵菩薩で知られる地蔵院があります。
天平13(741)年、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、
奈良東大寺の僧行基によってこの地に、地蔵菩薩を安置したと伝えられ、
東海道を旅する人々の信仰を集めました。
また、このお地蔵さんは、一休和尚が東海道を旅していた際に開眼供養されたというお話があります。
庄野を過ぎ、亀山に差し掛かった遠州公一行。
ここは松平忠明五万石の城下町です。
忠明公は1583年生まれ。
遠州公より4歳下で家康公の外孫でしたが、後に養子となります。
大坂の陣では大坂城外堀・内堀の埋め立て奉行を担当するなどしました。
(ちなみに遠州公も大阪の陣では家康公の旗本として参陣。)
戦後の戦功が考慮され、家康公の特命により摂津大坂藩10万石藩主、徳川大阪城の初代城主となります。忠明公は大坂城の復興よりも、大坂市街地や農村地帯の復興を優先し、天下の台所としての繁栄に不可欠な堀川の開削をはじめ、寺院や墓地を移転して市街地を拡大していきます。
大阪の名所「道頓堀」開削は、大坂の陣で一時中断していましたが、元和元年(1615)藩主となった忠明公が改めて開削を命じ、有志によって同年完成しました。そして当初「新川」「南堀河」などと呼ばれていた名称は、忠明公によって「道頓堀」と命名されました。
三重県のお土産として、笹井屋の「なが餅」が有名です。
天文十九年(1550年)戦国時代の頃、彦兵衛氏が日永の里に因んでつくったのが始まりと言われています。
遠州公の養父である藤堂高虎公は、生涯に何度も主君を変え戦国を生き抜き、
後に大大名となりますが、この高虎公が足軽の頃、一文無しの空腹で、日永の里を通りかかりました。
高虎公は出世払いで「なが餅」を食べさせてもらい、この長い餅が、武運が長く続く象徴として幸先よしと大変喜んだとか。
後年、高虎が津・伊賀に転封されると、笹井屋の彦兵衛を召し出して礼をし、
また参勤交代のときには必ず立ち寄って「なが餅」を賞味したと、笹井屋では紹介しています。
また同様の話に、吉田宿で無銭で餅を食べた高虎公が、主人に正直に謝ったところ、咎めるどころか出世払いでよしとして土産に餅を持たせ、見送ったという話もあります。
講談では、この高虎公の逸話を題材にした「出世の白餅」というお話があります。
更に進んでいくと、亀山というところに到着した。
山のある方を見ると、時雨が降っているように見えた。
名にしあふ 都のにしの かめ山の
山にもけふや 時雨ふるらし
ほどなく関の地蔵に着いた。この関では昔から、
顔を白く化粧し地蔵顔した遊女達が
錫杖ではなく、杓子を手ごとに打ち振って
「旅人のかた泊まっておいきなさい。
お疲れをとっていかれなされ。
じきに日も暮れます。これより先にはお宿はございません。
通しませんよ。」
などという声があちらこちらに聞こえてくる。
あづさ弓 はるばるきぬる 旅人を
爰(ここ)にてせきの 地蔵がほする
私には罪とがもない。頼みにするまい。
教化別伝。南無阿弥の塩辛を腹が膨れるほど食べたので
杓子ですくわずとも。
などと言って更に馬を早めて
坂の下の里に到着し、一泊。