〇薩摩焼の陶工
ご機嫌よろしゅうございます。
司馬遼太郎の小説「故郷忘じがたく候」をご存知でしょうか?
薩摩焼窯元として代々続く窯元の14代沈壽官を描いた小説です。代々「沈寿官」の名を継承し、現在は15代目となる沈家ですが、その初代にあたる人物が慶長の役の際に連行された多くの朝鮮人技術者の中にいました。士族並みの扱いを受け厚遇されてはいましたが、200年の時を経てもその子孫は
「いまも帰国のこと許し給うほどならば、
厚恩を忘れたるにはあらず候えども、
帰国致したき心地に候……故郷忘じがたしとは誰人の言い置きけることにや。」
との想いを抱きます。その後も代々の当主は家業を守り続けます。そしてこの小説は韓国併合や太平洋戦争などの苦難の時代に家業を守り続けた13代と、14代の波乱の人生を題材にしています。重い歴史を背負い、自らの人生を真っ直ぐに進む姿に胸を打たれます。
〇薩摩焼と小堀遠州
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は薩摩焼と遠州公にちなんだお話を。
遠州公が自身の茶会で薩摩焼の茶入を使用した記録が寛永五年(1628)、遠州公49歳の9月14日朝にあります。
また、遠州公が指導した薩摩焼として有名なのが、
「甫十瓢箪」と呼ばれる瓢箪形茶入です。
遠州公の号である宗甫と、数の十個にちなんで、「甫十」と呼ばれています。
現存が確認されているものは数点で、
甫十瓢箪の一つである銘「楽」や「玉川」
が有名です。
茶入の底に「甫十」の彫銘があり、瓢箪形の耳付小茶入であるとされています。
耳の代わりに茶入の胴の二方に小堀家の家紋である七宝輪違い紋があります。
薩摩焼の特徴
ご機嫌よろしゅうございます。
薩摩焼は、その始まりから時代を重ねるなかで、様々な姿をみせてきました。
17世紀は茶陶の優品を残し、十八世紀には実用具を得意としました。苗代川系・竪野系・龍門司系・西餅田系・平佐系・種子島系などに分けられる系譜のうち、竪野が薩摩藩の藩窯であったと考えられています。
竪野窯は、藩主の居館の移転に従って、場所を移動しています。このことから竪野窯が特別な窯であり、御庭焼に近い性格のものと思われます。
初期は無骨な作行が特徴の左糸切の茶入や、半筒形・李朝の祭器を思わせる独特な形の茶碗が見られ、元和(1615~24)以後から新しい展開をみせ、文琳などの唐物を基本とした茶入や、陶工が故郷の土と釉を用いて日本で焼いた「火計(ひばかり)手」と呼ばれる白薩摩が焼かれます。
〇薩摩焼の特徴
ご機嫌よろしゅうございます。
薩摩焼は、その始まりから時代を重ねるなかで、様々な姿をみせてきました。
17世紀は茶陶の優品を残し、十八世紀には実用具を得意としました。苗代川系・竪野系・龍門司系・西餅田系・平佐系・種子島系などに分けられる系譜のうち、竪野が薩摩藩の藩窯であったと考えられています。
竪野窯は、藩主の居館の移転に従って、場所を移動しています。このことから竪野窯が特別な窯であり、御庭焼に近い性格のものと思われます。
初期は無骨な作行が特徴の左糸切の茶入や、半筒形・李朝の祭器を思わせる独特な形の茶碗が見られ、元和(1615~24)以後から新しい展開をみせ、文琳などの唐物を基本とした茶入や、陶工が故郷の土と釉を用いて日本で焼いた「火計(ひばかり)手」と呼ばれる白薩摩が焼かれます。
ご機嫌よろしゅうございます。
今月は薩摩焼についてご紹介します。
渋い趣の器があるかと思えば、華やかな金襴手や庶民ための民芸などもあり、多様なスタイルの焼き物が焼かれてきた薩摩焼。
薩摩焼の歴史は、文禄・慶長の役(1529~1598)で朝鮮出兵した薩摩の島津義弘が80人余りの朝鮮人陶工を連れ帰ったことに始まります。
陶工を乗せた三隻の船は嵐にあい、別々の場所へ漂着し、それぞれの場所で窯が築かれたといわれています。各窯場では立地条件や陶工のスタイルによって異なる種類のやきものが焼かれ、それぞれ多様な展開をすることとなります。後にそれらの窯は苗代川系、竪野系、龍門司系、西餅田系、磁器系の平佐焼、種子島系などに分けられ、これら全てを薩摩焼と呼びます。現在も残るのは苗代川系、龍門司系、竪野系の3窯場です。
ご機嫌よろしゅうございます。先週に引き続きまして
青嶋さんにお話しを伺います。

●遠州公の時代から現在まで、志戸呂焼は瀟洒な
茶陶を生み出しています。青嶋さんも宗実御家元の
ご指導を受けて遠州好みの作品を制作されていますね。
御家元のご指導や他の作陶と違う点について教えてください。
青嶋さん:御家元のところに伺うと古いものをよく拝見させてい
ただく機会があり、部分的に形や細工を変えてみる等の細かい点も
ご指導をいただけるのでとてもわかりやすく勉強になります。
志戸呂焼は渋めの釉薬が多いので、遠州好みの端正な形や薄造りを
心掛けて茶道具以外にも取り入れています。
●利陶窯は志戸呂で唯一の登り窯と伺いました。
登り窯の大変な点を教えてください。
青嶋さん:まずは燃料の赤松を確保することが難しくなってきました。
利陶窯の周辺には無いので山梨県や長野県から運んで来ます。
●赤松を燃料に焼かれているのですか。
青嶋さん:赤松は松やにが多く見られるように、樹脂が多いので
火足が長く温度が上昇しやすいために焼き物ではよく使われています。
杉や檜でも焼いた事はありますが、時間がかかるうえに作品の
発色がよくありません。赤松は樹脂が多いためか煤(すす)が
多く燻された感じで色に深みが出るように思います。
2日かけて500点程の作品を焼くので登り窯を焼くのは年1~2回です。
500点焼いても壊れるものが多いので完成品は僅かです。
●作品が出来上がるまでには大変な苦労があるのですね。
本日はありがとうございました。
志戸呂焼 青嶋利陶さんにインタビュー
ご機嫌よろしゅうございます。

●今日は志戸呂利陶窯の青嶋利陶さんのお話を伺います。
青嶋さんはいつお会いしても穏やかで、ご一緒する時は
ほっと空気が和やかになるような優しい雰囲気をお持ちの方です。
青嶋さんはいつ頃から作陶をはじめられたのですか?
青嶋さん:父親の実家が静岡市で賎機焼という焼き物を
家業としていたのでそこで27年前に習い初めました。
その3年後に本多利陶先生に弟子入りして志戸呂焼をはじめました。
●遠州公の指導のあった志戸呂で、ご先代宗慶宗匠や
林屋晴三先生の指導もあり本多利陶先生が平成3年に金谷の地に
利陶窯を作られたのですよね。遠州公が東海道の往来で、
花器の指導をしたという話を聞いたことがありますが、
その指導を受けた作品は残っているのでしょうか?
青嶋さん:当時大名が直接作陶の指導をするという事は
あり得ないと思われるので花器の話は伝説的なものだと思います。
(次週に続く)
遠州公と志戸呂
ご機嫌よろしゅうございます。
寛永年間(1624-1643)に小堀遠州公が
茶器製作の指導をされ、優れた作品を
つくりだしました。
加藤庄右衛門から名を五郎左衛門に改めた
初代の弟子が五郎左衛門を襲名してその仕事を
担当したようです。しかしながら明らかに
遠州好を類推できる茶入及び茶碗は数が
多いとはいえません。その中で、茶入「初桜」は
いかにも遠州の好みを投影した作品といえます。
志戸呂独特の雰囲気を表す渇釉と濁黄色を交えた釉薬。
そしてすっきりとした肩の稜線と腰の柔らかな曲線。
松平備前守の箱書
宿からや 春の心もいそくらむ
ほかにまたみぬ 初さくらかな
が記されています。もう一つ、大正名器鑑所載の
「口廣」茶入には
この壷を 何とか人はとうとうみ
志戸呂もとろの茶入なるらむ
という歌を松平不昧が箱に書付けています。
志戸呂の歴史
ご機嫌よろしゅうございます。
島田市金谷に位置する志戸呂窯の歴史は古く
十二世紀後半の平安時代には施釉をしない
山茶碗などがつくられました。
その後は一時途絶え200年ほどの時を経ます。
以前ご紹介した、瀬戸から美濃へ陶業の中心地が
移っていった時代を俗に「瀬戸離散」と呼んだり
しますが、この時期に金谷にも陶工が移り住んだ
とされ志戸呂も復興。古瀬戸に似た作品がつくられました。
その志戸呂の全盛も平和な時代の到来と本家の瀬戸が
力を盛り返し、15年ほどで終わりをつげます。
天正十年(1582)には駿河国を領有した徳川家康公が
美濃の陶工加藤庄右衛門影忠を招いたり、天正十六年(1588)
には陶業差し許の朱印状を与えて優遇し、志戸呂の窯を
奨励しました。また、尾張瀬戸地方の陶工の移住によって、
志戸呂焼の生産が本格的に行なわれたと考えられています。