ご機嫌よろしゅうございます。
七夕の頃には「笹の葉さらさら軒端に揺れる..」
と歌われ、夏には笹や竹の風に吹かれる音が
爽やかに耳に届きますが、七夕の飾りや短冊を
笹竹に飾る風習は、もともと盆に先立ち精霊の
訪れる依代として立てたことに由来します。
またお正月には門松として竹を用いるなど、竹は
神の依代として欠かせない存在です。
文様としては松・梅とともに三友と呼んだり、
その高潔な姿を君子にたとえ四君子(梅・菊・蘭・竹)
と称されてきました。
以前ご紹介した名物裂の「笹蔓緞子」の文様は、松竹梅の
意匠化であり、茶人に大変愛された文様で、笹蔓手として
類裂が多く作られました。
また、冬の季節には雪との組み合わせで描かれた「雪持竹・笹」
などの姿で好まれて佂や茶器などに多く描かれています。
茶の湯の道具としての竹も、「竹に上下の節あり」と
あるように、その精神性からも非常に密接なつながりの
ある素材として親しまれてきました。
竹の花入や茶杓は、他の道具の中でもとりわけ作者の
人となりを表す道具として扱われます。
遠州公が削った茶杓にこんな歌が添えられています。
歪まする人にまかせてゆかむなる
これぞすぐなる竹の心よ
しなやかな中に、決して折れない真の強さ
竹の心が詠まれています。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は蛍にちなんだ古典落語をご紹介致します。
曽呂利新左衛門は、豊臣秀吉に御伽衆として仕えた
といわれる人物で、ユーモラスな頓知で人を笑わせ
る才がありましたが、元々堺で刀の鞘を作るのを
仕事としており、その鞘には刀がそろりと合うので
曽呂利の名がついたと言われています。
ある時公家衆から和歌を詠むように勧められた秀吉が
自分が猿面冠者と言われてたことから、猿丸大夫の歌を
本歌取りしようと思いつき
奥山に紅葉踏み分けなく鹿の
声聞くときぞ秋は悲しき
から「奥山に紅葉踏み分けなく蛍..」
と詠みました。蛍が鳴くのですか..?と公家衆のニヤニヤ
にたまらず「続きは明日」と言って秀吉は早々に退散します。
秀吉に呼び出された新左衛門は話を聞き終えると、
秀吉に策を伝えます。
「蛍は鳴くか」とふたたび問われたとき、古歌の
武蔵野に篠を束ねて降る雨に
蛍よりほか鳴く虫ぞなし
を引用し、さらに
奥山にもみじ踏み分けなく蛍
しかとも見えず杣(そま)のともし火
と、きこり(杣)が煙草を喫っている光景を「蛍」にたとえたと
強引にすり替え、秀吉は面子を保つことができました。
『続近世畸人伝』には秀吉の「なく蛍..」の歌に対して里村紹巴が
「蛍は鳴かない」と反論し機嫌を損ねた秀吉に、細川幽斎は
即興で「しかとも見えぬ光なりけり」
の歌を作ったという話も残っています
ご機嫌よろしゅうございます。
この時期羽化をはじめる蛍が夜の闇に淡い光をうつす頃
夏の夕べの美しい水と蛍の光はとても幻想的です。
蛍狩りはこの時期の季語でもありますが、
昔は身近だった風景も今では限られた場所で観られる特別な
ものとなってしまいました。
さて、遠州公の所持していた茶入に「蛍」の銘を
もつものがあります。
瀬戸春慶に分けられるこの茶入には、遠州公の書状が添い
織部の同門であった上田宗箇に宛てられたもので、この茶入は
ことのほか出来が良く、五百貫ほどの値打ちがあり、後々は
千貫にもなるのであるといった内容です。
遠州公は浅井家家臣となり、広島に居した宗箇には色々と心を
配っており、その他多くの書状が残っています。
瓢箪の形をしていますが、上部は小さめで愛らしい印象を
受けます。土見せを大きく残し、黒釉がたっぷりかかっています。
この釉薬からの連想か、挽家に遠州筆で金粉字形「蛍」と
記されています。
また、蛍と茶の湯にちなんだ落語を来月7月にご紹介する予定です。
どうぞお楽しみに
7月 17日 (月)清水
みちのべに清水ながるる柳かげ
しばしとてこそ立ちとまりけれ
ご機嫌よろしゅうございます。
ようやく梅雨が明けたかと思うと、
今度は暑さがこたえるようになりますが
歌人・西行も青空の広がる夏の日に、柳の木陰で
一休み、あまりに心地よくて長居してしまったようです。
観世小次郎信光が作った謡曲『遊行柳』にもこの
歌が登場し、那須の芦野にある柳は観光地として
一躍脚光を浴びるようになりました
「奥の細道」遊行柳の段では、この歌は西行が
二度の奥州歴訪(1144年頃と 1186年の二回)の
どちらかで詠んだものであるとして、実際にこの芦野に
訪れた芭蕉は「清水流るる柳」を見たいという願いが
今こそかなったと感動し、
田一枚 植ゑて立ち去る 柳かな
と詠んでいます。
この西行の歌から遠州公によって銘がつけられた茶入に
「清水」があります。
真中古 柳藤四郎手の本歌であるこの茶入の挽家には遠州公が
金字で書付けされています。
やや青味を帯びた白色土に、口は浅めの捻返し
黄茶色釉に濃墨色の釉が掛かっています。
ご機嫌よろしゅうございます。
長く鬱陶しい梅雨の季節
カラッと晴れた青い空を覆い隠す雲が、時折
恨めしくなりますが、今日はそんな雲の文様の
お話でもしながら、気を晴らすことに致しましょう。
雲文は中国では古くから陰陽の気の現れとして尊ばれ、
神仙術や道教、仏教などの荘厳用に様式化され、吉祥文
として扱われます。
同じく吉祥文様の龍文、鳳凰文、鶴文や、宝尽し文と
取り合わせることが多く、雲単体は少ないようです。
有名なものには夢窓疎石の袈裟とも伝わる「嵯峨金襴」
勘合貿易で運ばれた嵯峨金襴の類文の裂「富田金襴」
遠州公の道号であり、春屋円鑑国師筆「大有号」の表装では
中廻しに雲を単体で五の目に配した「白茶地地雲文緞子」が
使われています。
他様々な道具や裂地に雲の姿を見ることができます。
また、「雲堂手」と呼ばれる文様は渦巻状の雲形と楼閣が
染付によって描かれたもので、「紀三井寺」とよばれる
茶碗はその代表的なものです。
もとは香炉であったものを利休が茶碗に転用したといわれています。
名前の由来は諸説ありますが、『茶器名物図彙』では遠州公が
染付に描かれた人物を観音に見立て、観音霊場として有名な
紀州・紀三井寺から名をつけたと説明しています。
ご機嫌よろしゅうございます。
夏の季節には、和菓子も寒天や錦玉などを用いた
涼しげでさっぱりとしたお菓子が作られます。
今月のお菓子は「天の川」
七夕にちなんで作られたものです。
錦玉羹に羊羹を流し合わせ、道明寺と金箔で
夜空にきらめく天の川の星空を表しています。
お稽古でお客様にお出しする際には、
直前まで保冷剤で優しく冷やしておいて、
水を打った木地の銘々皿に青葉を敷いています。
せっかく冷やしていたお菓子ですので、
お早めにとお勧めして召し上がっていただきます
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は7月7日七夕です。
七夕については昨年にもご紹介してまいりましたが、
今日は茶の湯の中の七夕を探してみたいと思います。
茶入の銘では、名物「瀬戸金華山真如堂手茶入 銘 七夕」
二代宗慶公が一年に一度取り出すべしという意味で
名付けられたと伝わっています。
機織りを仕事とした織姫にちなんで、糸巻をモチーフと
するお道具もあります。
「型物香合相撲」番付西方二段五位には「染付糸巻香合」
が挙げられています。
また、梶の葉に字を書くと字が上達するとも言われますが、
尾形乾山は「梶の葉の絵茶碗 銘 天の川」を残しています。
宗実御家元が貴美子夫人と共に和歌を梶の葉に
書きつけられた作品は、七夕が近づくと宗家道場に
毎年飾られています。
御家元 あまの川遠きわたりにあらねども
君のふなでは年にこそまで
貴美子夫人 星合の空
ご機嫌よろしゅうございます。
今週の金曜日は七夕です。床の間に飾られている梶の葉。
昔サトイモの葉にたまった夜露を天の神から受けた水だと考え、
その水で墨をすり、梶の葉に和歌を書いて願いごとをしました。
梶の葉は、細かい毛がたくさんあり筆で書きやすいのだそうです。
その梶の葉に五色の糸を縫い付けベネチアンガラスに飾っています。
ご機嫌よろしゅうございます。
初夏に花を咲かせる花として桐があります。
そろそろ公園などでその美しい花を見かける季節と
なりました。
中国の神話では有徳の帝王を讃え現れる鳳凰は梧桐に
しか住まず、竹の実しか食べないといいます。
これが日本に伝わり、桐が格の高い文様として鳳凰と
共に意匠化されていきましたが、ここで鳳凰が棲むと
された梧桐は、日本でいうアオギリという全くの別種で
中国では昔どちらも「桐」の文字を使用していたため、
この二種が取り違えられたと考えられます。
アオギリは小ぶりの小さい黄色い花を咲かせ、
梧桐は花序をまっすぐに伸ばし、紫色の花を咲かせます。
「枕草子」においても、紫に咲く桐の木の花を風情がある
と讃え、唐土で鳳凰がこの木だけに棲むというのも格別に
素晴らしい」と述べていて、混同されていることがわかります。
しかしながら格調の高い文様として浸透していった
桐の文様は、家紋や装飾文様、茶の湯の世界でも
多く見ることができます。
すぐに思い浮かぶのは高台寺蒔絵。
遠州好の「桐唐草蒔絵丸棗」は、前田家抱えの塗師
近藤道恵の作で朱地に桐唐草が蒔絵されています。
また裂地としては昨年狂言「米一」でご紹介しました
「中興名物 米一茶入」の仕覆「嵯峨桐金襴」や、
大内義隆縁の「大内桐金襴」、他に戦国末期から安土桃山時代
にかけて運ばれた「黒船裂」の桐文などがあります。
また、遠州公は種類の異なる材木を組み合わせ道具を作らせて
おり、「桐掻合七宝透煙草盆」「桐木地丸卓」など、
桐を使用した道具が多く残っています。
ご機嫌よろしゅうございます。
先月まで「醒睡笑」の中から茶の湯にちなんだお話を
ご紹介してまいりました。
策伝が、茶を織部に学び、遠州公との交流深い人物であったことは
先日お話いたしました。
浄土宗西山派誓願寺55世法主となった後、元和9年70歳で
塔頭竹林院隠棲、織田有楽・千道安の一字を合わせて
「安楽庵」と号しました。
茶器、書籍を多く所持していたことが「安楽庵名物帳」でわかります。
茶の湯では裂地においても安楽庵裂の名で馴染みがあります。
安楽庵裂とは一重蔓あるいは二重蔓の唐草の間に牡丹の花を
配したものや宝尽し紋のものが多く見られます。
『古今名物類聚』には、安楽庵として紺金地木瓜雨龍紋、
柿色金地一重蔓大牡丹、浅黄色金地木瓜折枝紋、浅黄金地雲龍紋、
萌黄地瓦燈竜紋などを載せています。
文様や種類は雑多で統一的な特色はなく、
一般に17世紀初頭の近渡りと、それ以後の今渡りものが
多いといわれています。