ご機嫌よろしゅうございます。
先週まで水辺のものにちなんだ文様をご紹介してまいりました。
今日は「網」についてのお話を
漁業で使用する網代も茶の湯の中によく登場します。
志野や織部などの美濃焼には網干はよく描かれる文様です。
昨年ご紹介した能「桜川」を題材とした西村道仁作の
「桜川釜」は肩から胴にかけ網目を表し、羽落ち近くに
桜の花二輪。
これは我が子を探す狂女が、子供と同じ名の桜を網で掬う
様子を想起させます。
また名物裂では織田有楽の所持と伝えられる「有楽緞子」
の地紋に網目文様が見られます。
他、文様ではありませんが、風炉先に網代を用いて
涼しげな様子を茶席に取り入れますし、
茶室の点法座の天井には、網代天井がよく用いられます。
落ち天井になったつくりは亭主の謙遜の意を表したもの
と言われています。
ご機嫌よろしゅうございます。
明日、8月29日は「焼き肉の日」です。
「8(や(き))2(に)9(く)」の語呂合わせと
夏バテの気味の人に焼き肉でスタミナをつけてもらおうと、
平成5年(1993年)に全国焼肉協会が定めました。
そこで今日は肉にちなんだお話を。
675年の天武天皇の時代、仏教における殺生の禁の思想から
肉食の禁止令が制定されます。
以後日本で肉食を禁ずる歴史は続きますが、
その禁をかいくぐるようにイノシシを牡丹、馬を桜、鹿を紅葉
と呼ぶ隠語も生まれます。
江戸時代には「滋養強壮」のための薬として食べられていたので
やはり日常的に口に入るものではなかったようですが
鳥は食されていました。(鶏はたべません)
茶の湯の会席にも山鳥や鶉、雉などの焼き鳥が登場し、
特に鶴は貴重で一番のおもてなしとされました。
将軍も正月には鶴を食したそうです。
ちなみに松屋会記で有名な松屋家は、手向山八幡宮の氏子で
神の使いが鳩であることから、鳥肉を食べることは禁じられていました。
そのため、遠州公も松屋久政を招いた茶会では、他のお客様に
鳥を出しても、久政には鯛などの別の献立を用意していたことが
会記を見ると分かります。
ご機嫌よろしゅうございます。これまで波の文様を
幾つかご紹介してきました。
今日は「青海波」のお話をしたいと思います。
「青海波」は同心円を幾重にも重ねた波文で、
ペルシャ・ササン朝様式の文様が中国を経由して
伝播したといわれています。
唐楽から伝わった雅楽の舞曲「青海波」で舞人が、
この形の染文の衣装をつけて舞うのが
名前の由来と言われています。
元禄の時代に勘七という漆工がこの波形を刷毛で
描くのを得意とし、大いに流行したため世間で
彼を青海勘七と呼びました。
名物裂では本能寺所伝とされる本能寺緞子や三雲屋緞子
織部緞子などがあります。
本能寺緞子は二重の青海波に捻り唐花と8種の宝尽しの図柄で
大名物油屋肩衝の仕覆として
三雲屋緞子はその色替りとされる裂で中興名物の「染川」や
「秋の夜」の仕覆に。また織部緞子とも呼ばれる
青海波梅花文緞子は大名物の松屋肩衝にそっています。
ご機嫌よろしゅうございます。
今月のお菓子は「緑陰」です。
葛に包まれたお菓子ですので、冷蔵庫ではなく保冷剤などを
使って優しく冷やし、お客様にお出します。
木々の緑がつくってくれる木陰に一休み。
夏らしい情景が浮かびますが、
今週の関東はまるで梅雨に戻ったかのよう。
木陰に雨宿りしたくなる日が続いています。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は先週に引き続き、波の文様についてのご紹介を
致します。
波の上ではねる、鯉のような魚の描かれた図柄
これを「荒磯」とよんでいます。
荒磯裂と呼ばれる名物裂には、有名な荒磯緞子がありますが
穏やかな水流と優しい魚の姿をしています。
一方、緞子に比べると知名度の低い荒磯金襴の
水流と魚形は、激しさと厳しさを持ち、
それぞれの裂地の生まれた土地柄や民間伝承を反映して
できた違いと考えられています。
ちなみにこの荒磯緞子ですが、遠州公がこれを好んで茶入の
仕覆としたことから、更に人気が高まったと言われています。
この仕覆の添う茶入は
中興名物 高取鮟鱇茶入「腰蓑」
瀬戸春慶「春慶文琳」
瀬戸金華山大津手本歌「大津」
丹波耳付「生野」
があります
床 紅心宗慶宗匠筆
日光霧降滝
花 水引 遠州槿
花入 手付籠
ご機嫌よろしゅうございます。
暑さの厳しい季節が続きますが、床の間を拝見すると
勢いよく流れ落ちる滝と、心のあらわれるような白さの
槿に一時の清涼感を感じることができました。
この掛物は御先代が昭和41年10月直門の方と日光を訪れ、
霧降滝をご覧になり、落ちてくる水しぶきが霧となり、
全貌を現さない滝の姿に絵心を誘われ帰京して直ぐに
筆をお取りになり一気に描かれた一幅です。
ご機嫌よろしゅうございます。
磯遊びも楽しい季節
今日は、先週ご紹介した「笹」と合わせて「笹蟹」などの
文様としても親しまれている「蟹」をご紹介致します。
七種の蓋置と呼ばれるものの一つに「蟹」がありますが
これはもともと筆架・文鎮を蓋置に見立てたものです。
足利義政が慈照寺の庭に十三個の唐銅の蟹を景色として
配置し、その一つを武野紹鷗が賜って蓋置として用いたことが
蟹蓋置のはじまりといわれています。
この蟹蓋置が後に遠州公に伝わり、七代目宗友政方の代に
酒井家に渡り、酒井宗雅がこの写しを13個作ったと箱書きに
記しています。
また昨年、宗実御家元は華甲を迎えられました。
この華甲とは昨年にもご紹介しました通り、
蟹の甲羅は干支の最初である甲を想起させることから歳を表し、
華の字は分解すると六つの十と一となることから、還暦を表す
言葉として用いられます。
その華甲にちなんだお道具として、菊と蟹をあしらった
「交趾臺菊蟹香合」や高台を六角形にした沓形の御所丸茶碗を
好まれています
ご機嫌よろしゅうございます。
七夕の頃には「笹の葉さらさら軒端に揺れる..」
と歌われ、夏には笹や竹の風に吹かれる音が
爽やかに耳に届きますが、七夕の飾りや短冊を
笹竹に飾る風習は、もともと盆に先立ち精霊の
訪れる依代として立てたことに由来します。
またお正月には門松として竹を用いるなど、竹は
神の依代として欠かせない存在です。
文様としては松・梅とともに三友と呼んだり、
その高潔な姿を君子にたとえ四君子(梅・菊・蘭・竹)
と称されてきました。
以前ご紹介した名物裂の「笹蔓緞子」の文様は、松竹梅の
意匠化であり、茶人に大変愛された文様で、笹蔓手として
類裂が多く作られました。
また、冬の季節には雪との組み合わせで描かれた「雪持竹・笹」
などの姿で好まれて佂や茶器などに多く描かれています。
茶の湯の道具としての竹も、「竹に上下の節あり」と
あるように、その精神性からも非常に密接なつながりの
ある素材として親しまれてきました。
竹の花入や茶杓は、他の道具の中でもとりわけ作者の
人となりを表す道具として扱われます。
遠州公が削った茶杓にこんな歌が添えられています。
歪まする人にまかせてゆかむなる
これぞすぐなる竹の心よ
しなやかな中に、決して折れない真の強さ
竹の心が詠まれています。
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は蛍にちなんだ古典落語をご紹介致します。
曽呂利新左衛門は、豊臣秀吉に御伽衆として仕えた
といわれる人物で、ユーモラスな頓知で人を笑わせ
る才がありましたが、元々堺で刀の鞘を作るのを
仕事としており、その鞘には刀がそろりと合うので
曽呂利の名がついたと言われています。
ある時公家衆から和歌を詠むように勧められた秀吉が
自分が猿面冠者と言われてたことから、猿丸大夫の歌を
本歌取りしようと思いつき
奥山に紅葉踏み分けなく鹿の
声聞くときぞ秋は悲しき
から「奥山に紅葉踏み分けなく蛍..」
と詠みました。蛍が鳴くのですか..?と公家衆のニヤニヤ
にたまらず「続きは明日」と言って秀吉は早々に退散します。
秀吉に呼び出された新左衛門は話を聞き終えると、
秀吉に策を伝えます。
「蛍は鳴くか」とふたたび問われたとき、古歌の
武蔵野に篠を束ねて降る雨に
蛍よりほか鳴く虫ぞなし
を引用し、さらに
奥山にもみじ踏み分けなく蛍
しかとも見えず杣(そま)のともし火
と、きこり(杣)が煙草を喫っている光景を「蛍」にたとえたと
強引にすり替え、秀吉は面子を保つことができました。
『続近世畸人伝』には秀吉の「なく蛍..」の歌に対して里村紹巴が
「蛍は鳴かない」と反論し機嫌を損ねた秀吉に、細川幽斎は
即興で「しかとも見えぬ光なりけり」
の歌を作ったという話も残っています
ご機嫌よろしゅうございます。
この時期羽化をはじめる蛍が夜の闇に淡い光をうつす頃
夏の夕べの美しい水と蛍の光はとても幻想的です。
蛍狩りはこの時期の季語でもありますが、
昔は身近だった風景も今では限られた場所で観られる特別な
ものとなってしまいました。
さて、遠州公の所持していた茶入に「蛍」の銘を
もつものがあります。
瀬戸春慶に分けられるこの茶入には、遠州公の書状が添い
織部の同門であった上田宗箇に宛てられたもので、この茶入は
ことのほか出来が良く、五百貫ほどの値打ちがあり、後々は
千貫にもなるのであるといった内容です。
遠州公は浅井家家臣となり、広島に居した宗箇には色々と心を
配っており、その他多くの書状が残っています。
瓢箪の形をしていますが、上部は小さめで愛らしい印象を
受けます。土見せを大きく残し、黒釉がたっぷりかかっています。
この釉薬からの連想か、挽家に遠州筆で金粉字形「蛍」と
記されています。
また、蛍と茶の湯にちなんだ落語を来月7月にご紹介する予定です。
どうぞお楽しみに