4月 11日(月)お稽古場の風景
「直入軒の床の間拝見」
ご機嫌よろしゅうございます。
暖かな日差しの中、
宗家道場へお稽古にいらっしゃる門人の方は、
まず春を床の間から感じ、
そして春ならではのお点法の稽古に臨まれています。
この季節は釣り釜や、透き木釜、茶箱の設えがされ、
稽古場はさながら花見に野点の趣向を楽しむかの
ように終始明るく賑やかなな様子です。
床 紅心宗慶宗匠筆 三十六歌仙・紀貫之
さくらちる木の下風は寒からで
空にしられぬ雪ぞ降りける
花 加茂本阿弥椿 袋藤
花入 備前 旅枕
掛物は貫之の代表歌として知られる『拾遺集』所載の一首です。
「桜が散る木の下を吹く風は寒くはないが、
空には知られていない雪、落花の雪が降っている」
という意味の歌です。
桜が散り急ぐ木の下をゆく風はもちろん寒くはない、
という前提は、下句で「空にしられぬ雪」という、
しゃれた落花の比喩を用いるための準備です。
4月8日(金)能と茶の湯
「隅田川」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日はこの季節によく演じられる能「隅田川」をご紹介します。
物語の舞台は春の隅田川の堤、
京で人買いにさらわれた我が子を捜し求める母の
絶望が描かれます。
息子をさらわれ、狂女となった旅の女は
隅田川にさしかかります。
舟にのるため先頭にもとめられて
『伊勢物語』の「都鳥」の古歌
名にし負はば いざ言問はむ 都鳥我がおもふ人は ありやなしやと
を引き、自分と在原業平とを巧みに引き比べ舞い
船頭ほか周囲を感心させ、舟に乗ります。その舟の中で、一年前の今日である三月十五日に対岸の川岸で亡くなった梅若丸という子どもの話を聞き、それが自分の探している我が子であるとわかります。
狂女に同情した舟頭の手助けで梅若丸の塚に案内され、弔いをすると梅若丸の亡霊が現れ触れようとしますが、その手に我が子を
抱くことはできず、消えてしまします。
母の悲しみは一層深まるのでした。
我が子の行方を尋ねてさまよう狂女ものは
他にもありますが、親子の再会をもって終わるものの中でこの曲だけは唯一悲劇的な結末で終わるものです。
梅若伝説については一昨年の3月15日のメールマガジンでご紹介しましたので、そちらもご参照ください。
4月 1日(金)能と茶の湯「忠度(ただのり)」
ご機嫌よろしゅうございます。桜にちなんだ演目としてあげられるものに「忠度」があります。
行き暮れて 木の下陰を宿とせば
花や今宵の主ならまし
世阿弥の新作能である「忠度」は平清盛の末弟であり、壇ノ浦で討ち死にした平忠度が詠んだこの歌が、
「千載集」に詠人不知(よみびとしらず)として取り上げられた心残りを、
亡霊となって旅の僧に語るというあらすじです。壇ノ浦で打ち取られた若い青年の名は分からず箙につけられた短冊から、
かの武にも文にも秀でた忠度であるとわかるのでした。平家は朝敵とされ、
「読み人しらず」として名を削られてしまうのでした。
昨年にご紹介しましたが、この忠度が薩摩守だったことから細川三斎が命銘した薩摩茶入「忠度」があります。
3月 28日(月)逢坂の関
ご機嫌よろしゅうございます。
三月の後半は
卒業式や離任式など、
これまで共に歩んできた友や師との別れ
そして新たな世界へ歩んでいく時
皆様も様々な旅立ちや出会いをされて
らっしゃるのではないかとおもいます。
そこで今日はこの和歌を御紹介致します。
これやこの行くも帰るも別れては
知るも知らぬも逢坂(あふさか)の関
『後撰集』
これから
京から東国へ行く人も、東国から京へ帰ってくる人も、
別れてはまた逢い、見知っている人も
見知らぬ人も、出会っては別れる
その名前のとおり「あふさか」(会う坂=逢坂)
の関であるなぁ。
この歌に出てくる「逢坂の関」は、近江
(滋賀県)と山城(京都)との境にある、
逢坂山に設けられた古代の関所です。
この逢坂の関を超えると、東国とされました。
別れは新たな出会いへの出発地点
それぞれの春が素晴らしい出発となりますように。
3月25日(金)能と茶の湯
「桜川」
ご機嫌よろしゅうございます。
先週は桜川をご紹介しました。
この桜川の名を持つ茶道具に、
西村道仁作とされる釜があります。
千少庵が愛用したといわれているもので
胴は面取し、面の角に細かい玉縁を
めぐらし、肩から胴ににかけて斜線がかけられ
籠目としています。
釜の下の方には桜の花が二輪
あしらわれています。
また、必ずしも能にちなんでというわけでは
ありませんが、「桜川」と名をもつ道具で
有名なのは大阪の藤田美術館所蔵の
古染付形物水指です。
形物とはその形と文様に一種の定形が
あるという意味です。
見込に陰陽の桜花、外に波の絵があり
水がたたえられると、桜花がうかびます、
3月21日(月)弘法大師 空海
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は3月21日
真言宗の開祖・空海が承和2年(835)に
高野山・奥の院で入定した日です。
空海は最澄らと同時期に唐に渡り、
後に日本に真言密教をもたらしました。
また能書家としても知られ、
嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられます。
「弘法も筆の誤り」「弘法筆を選ばず」
といった諺で現在でもおなじみです。
3月21日、62歳で御入定されます。
茶の湯に関しては
最澄が805年、比叡山の日吉大社に
唐より持ち帰ったお茶の種を植え、
空海は806年、唐から茶の種・石臼を持ち帰り
比叡山に植えました。
当時のお茶は高級品で、主に僧侶や貴族の間で
薬用や儀式に用いられるものでした。
形態も現在のようなものではなく、
煮出して飲む団茶であったと考えられます。
しかしこの茶は遣唐使の廃止により、
次第に衰退していきます。
3月 18日(金)能と茶の湯
「桜川」
ご機嫌よろしゅうございます。
春の訪れを感じ、桜の便りを心待ちに
している近頃。
今日は「桜川」をご紹介します。
九州の日向国、現在の宮崎県の桜の馬場
ここに母ひとり子ひとりの貧しい家がありました。
その子・桜子は、母の労苦に心を痛め、
東国方の人商人にわが身を売ります。
人商人が届けた手紙から桜子の身売りを知った母は、
悲しみに心を乱し、桜子の行方を尋ねる旅に出ます。
それから三年
遠く常陸国(茨城県)の桜川は春の盛りを迎えています。
桜子は磯辺寺に弟子入りしており、
師僧と共に花の名所の桜川に花見にでかけます。
折しも母は長旅の末、この桜川にたどり着いた
ところでした。母は狂女となって
川面に散る桜の花びらを網で掬い、狂う有様を
見せていました。
師僧がわけを聞くと、母は別れた子・桜子に
縁のある花を粗末に出来ないと語ります。
そして九州からはるばるこの東国まで、
我が子を探してやって来たことを語り、
落花に誘われるように桜子への想いを募らせ、
狂乱の極みとなります。
僧は母子を引き合わせ、母はその子が
桜子であるとわかり、正気に戻って嬉し涙を流し、
親子は連れ立って帰ります。
母子の深い情愛を謡いつつ、
また舞台や名前、季節、心理描写などを
「桜」を主軸に据えながら美しく切ない叙情を
表現されている点も見所です。
この名前を持った茶道具に古染付 桜川 水指等があります。
3月14日(月) 靴の日
ご機嫌よろしゅうございます。
明日3月15日は、靴の記念日です。
1870(明治3)年のこの日、陸軍の創始者・大村益次郎
の提案により、築地に日本初の西洋靴工場が
開設されました。輸入された軍靴が大きすぎ、
日本人の足に合う靴を作る為でした。
ちなみに7月22日は下駄の日
7は下駄の寸法を表わすのに「七寸七分」というように
7がよく使われ、22は下駄の跡が「二二」に見えることから
制定されたそうです。
靴が普及する前は下駄を履いていたわけですが
この下駄を上手に履くのは難しく、
その音だけで、履いている人の人柄まで分かってしまう
と言われていました。
その下駄で茶の湯初心の人が、なれない飛び石の
上を歩くのは気の毒。
そこで利休はもっと気軽に茶の湯の露地が歩けるように
雪駄(男性用草履)を作ったと「南方録」に記されて
います。
この雪駄は竹皮草履の上に牛皮を貼ったものでした。
現代でも茶の湯では、洋装でいらした方も
露地を歩かれる際には露地草履に履き替えて
いただきます。
露地では、厚底の靴では感じられない石の丸み、
地面の温もりが草履では感じられる気がします。
3月 11日(金) 能と茶の湯
「竹生島」
ご機嫌よろしゅうございます。
先週は「竹生島」をご紹介しました。
今日はその「竹生島」にちなんだ釜をご紹介します。
醍醐帝の朝臣が島へ向かう舟から
眺めた湖畔の景色を、建長寺自休蔵主が
竹生島に参詣した際の句が引用しています。
緑樹影沈んで 魚木に上る気色あり
月海上に浮かんでは 兎も波を走るか
おもしろの島の気色や…
訳)島に生える木々の緑が湖面に映り、
魚たちが木を登っているように見える。
月も湖面にその姿をうつすと、
月の兎も波間に映る月明かりを
奔けて行くようだ
なんとも不思議な島の景色よ。
芦屋真形竹生島釜には、波頭に兎の図面と
反対に洲浜に生える松樹が描かれています。
この兎に波の図は着物の模様でもよく
用いられます。
3月7日 (月)
お稽古場の風景 「直入軒の床の間拝見」
ご機嫌よろしゅうございます。
3月5日は二十四節気の啓蟄でした。
土の中で春を待っていた生き物達が 眠りから覚める時期。
今日はそんな春の訪れを感じる 宗家稽古場の床の間を御紹介します。
床 紅心宗慶宗匠筆 花開天下春
花 玉手箱椿 梶の新芽
花入 古銅 福耳
掛け物の言葉「花開天下春」は 一輪の花が天下に春の訪れた事を知らしめ
花一輪の中に天下の春が凝縮していることを 表しています。
この考えを仏教では一多相入といいます。 また、「花開く」とは、心の花が 開く事、悟りの開ける事をも指します。