8月 5日 (金)能と茶の湯
狂言「清水」
ご機嫌よろしゅうございます。
風炉の季節、涼を求めてこの時期に
行われる名水点、
茶の湯には美味しい水が欠かせません。
今日はこの名水にちなんだ狂言をご紹介します。
茶会を催すので、野中の清水へ汲みに行くように
主人に命じられた家来の太郎冠者。
面倒なので、七つ(午後4時)をすぎると、
あのあたりには鬼が出ると水汲みを断りますが、
主人は話を聞き入れず、家宝の桶を持たせて追い出します。
しぶしぶ出かけたものの
「野中の清水へ行くと鬼が出て、手桶を噛み
割ってしまったので逃げて帰った」
と報告する太郎冠者。
家宝の桶を惜しんだ主人はみずから清水へ向かいます。
先回りした冠者が鬼の面をかぶって脅し、
主人への不平不満を面の勢を借りてぶちまけます。
主人は一度は命乞いをして逃げ出しますが、
怪しみ戻ってきます。
冠者はもう一度鬼に扮して脅すものの、
今度は正体を見破られ、主人に追われて逃げて行くのでした。
野中の清水は名水として知られ、播磨国の印南野(いなみの)
現在の兵庫県、播磨平野の一部に湧き出ていたと言われます。
8月1日(月)宗家道場の床の間拝見
ご機嫌よろしゅうございます。
今日から8月に入りました。
8月の異名は葉月
一説に木の葉が紅葉して落ちる月「葉落ち月」から
由来するといわれています。
旧暦では1ヶ月ほど隔たりがありますので、
現在の8月のこの暑さからはまだ実感がわきません。
さて、今月の宗家道場の床の間です。
床 宗中正優公筆 其心庵宗明師加筆
素瀧絵賛
花 蝦夷透百合 桔梗 九蓋草 虎の尾
河原撫子 水引 矢筈芒
花入 古銅 釣舟
この掛物は宗家に伝わる宗中公が書かれた瀧の絵に
後年、宗明宗匠が岩を加筆し、好みの表装をされた
ものです。自然の厳しさと、神秘的で引き込まれる
ような温かさを感じさせてくれます。
宗明宗匠が書き加えた岩角を打って流れ落ちる水は
夏の涼しさを感じさせます。
7月29日(金)
能と茶の湯 「兼平」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は先週ご紹介しました香木「柴舟」 の銘の由来となりました謡曲
「兼平」の物語をご紹介します。 木曽に住む僧が、木曽義仲を弔うため、
近江国・粟津の原に向かいます。
琵琶湖の畔の矢橋浦に着くと、 柴を積んだ一艘の舟が通り過ぎ 世の業の、
憂きを身に積む柴船や、 焚かぬ前よりこがる覧 と歌われます。
この柴舟に乗せてもらい、僧は粟津を目指します。 船頭は僧に舟上で、このあたりの名所を教えます。
都の鬼門を守る比叡山の延暦寺、その来歴を きくうちにやがて粟津に到着します。
この粟津原は、木曽殿と今井四郎兼平の終焉の地。 懇ろに弔い野宿をしていた僧の前に、
甲冑を帯した兼平の霊が現れます。
先程僧を導いた船頭は自分であると明かし、 主君である木曽義仲の最期と、それを見届け、
壮絶な自害を遂げた自身兼平の様子を詳しく 物語るのでした。
尚、柴舟の香は 世の業の浮きを身につむ柴舟は 焚かぬさきよりこがれこそすれ の和歌からとられたというのが通説となっています。
7月 25日(月)夏の茶の湯
ご機嫌よろしゅうございます。
暑さ厳しき折、茶の湯では涼を得る様々な
工夫があります。
木地の肌に水を打った釣瓶の水指や建水
青々とした竹の蓋置、こういったものを
茶の湯に用いて清々しさを取り入れ、
楽しみます。
『山上宗二記』には「釣瓶 面桶、竹の蓋置、この三色、紹鷗好み出だされ候」とも記されています。
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また『長闇堂記』には風呂のあがり屋で開いた
夏の茶に、紹鷗がこれらを用いたと記されています。
当時は湯船につかるのではなく、蒸し風呂で汗を流し
ていました。夏の暑い日はこの蒸し風呂が何よりの
ご馳走であったようです。
そして、水をかぶった後に体を休める場所が「あがり屋」
ここで紹鷗が曲げの道具を用いたということになります。
風呂の湯気の影響も考えて漆を避けたということも
考えられ、また釣瓶や曲物は本来風呂場の道具
であったので、夏の風呂を連想する趣向で
涼を感じ、楽しんだのではないかと考えられています。
7月 18日(月)遠州公の茶の湯 ご機嫌よろしゅうございます。 先週金曜日は「関寺小町」のご紹介をしました。 この謡の中で小町は、詠歌は風雅の心である と語り、 わびぬれば身を浮き草の根を絶えて 誘う人あらばいなんとぞ思う この歌は自分の歌であると話します。 これは文屋康秀が三河(愛知県)の国司の役人になっ たので、今度私の任国を視察においでになりませんか と誘われた際、小町が送った返事の歌です。 遠州公はこの歌を本歌取りして、 佗びすきは身を浮き草の根を絶えて さそふ人あらば いはんとぞ思う と、歌ったように、これまで閉鎖的だった 茶の湯の一面を開放的な世界へと導き、 茶の湯を広く人々に伝えようとしました。 さて、今週の21日から24日にかけて、 今年も「教授者育成のための特別講習会」が 開かれます。多くの方に遠州流茶道を伝える 橋渡しとなるべく全国から教授者が集まり、 研鑽を積みます。
7月 11日(月)正喜撰(しょうきせん)
太平の眠りを覚ます正喜撰
たった四杯で夜も眠れず
ご機嫌よろしゅうございます。
嘉永6年6月3日(1853年7月8日)江戸湾の入り口である浦賀に、
アメリカの使節ペリーが黒船4隻を率いて江戸湾の入り口浦賀沖に現れました。
当時の人々は初めて目にする黒船に目を奪われたことでしょう。
正喜撰(しょうきせん)と呼ばれるお茶と蒸気船をかけて、
たった四杯のお茶で目が覚めてしまったように、
四隻の黒船を見て夜も眠れないほど動揺する人々の様子を皮肉った狂歌です。
正喜撰とは、当時の高級煎茶の代名詞として知られていました。
宇治川の近く、平安の歌人喜撰法師が隠棲したと伝えられる喜撰洞で採れた煎茶を喜撰と呼び、
その後次々に現れる粗悪品と区別するため、「正真正銘の喜撰茶」という意味で「正喜撰」の茶銘がつけられました。
7月8日 (金)能と茶の湯
「関寺小町」
ご機嫌よろしゅうございます。
昨晩は七夕
天の川はご覧になれましたでしょうか?
さて、先週ご紹介しました「関寺小町」は
老女物といわれるものの中でも最奥の曲と
され、なかなか上演されることはないのだそうです。
この「関寺小町」に関係の深い茶道具をご紹介します。
中興名物の伊部茶入「関寺」
青味を帯びた榎肌と、他面は赤味を帯びた
伊部釉とで片身替りをなしています。
茶入全体の佗しい景色を衰残の姿の小町
に重ねての銘と言われています。
舟橋某所持、細川越中守、三河岡崎藩主本多中務
に伝わり、明治初年松浦家に入りました。
7月8日 (金)能と茶の湯
「関寺小町」
ご機嫌よろしゅうございます。
昨晩は七夕
天の川はご覧になれましたでしょうか?
さて、先週ご紹介しました「関寺小町」は
老女物といわれるものの中でも最奥の曲と
され、なかなか上演されることはないのだそうです。
この「関寺小町」に関係の深い茶道具をご紹介します。
中興名物の伊部茶入「関寺」
青味を帯びた榎肌と、他面は赤味を帯びた
伊部釉とで片身替りをなしています。
茶入全体の佗しい景色を衰残の姿の小町
に重ねての銘と言われています。
舟橋某所持、細川越中守、三河岡崎藩主本多中務
に伝わり、明治初年松浦家に入りました。
7月 4日 (月) 宗家道場の床の間拝見
ご機嫌よろしゅうございます。 7月に入り、暑さもきびしくなってきました。
7月7日は七夕。旧暦よりひと月程早いので まだ梅雨空の中に天の川を見つけるのは なかなか難しいことと思います。
今日の床の間は七夕にちなんだ飾りです。
床 其心庵宗明宗匠・宗吟大姉・紅心宗慶宗匠他筆 七夕色紙・短冊貼雑
花 梶の葉 五色の糸
花入 ベネチアングラス
掛物の解説 其心庵宗明宗匠の青山道場の頃、七夕が稽古日の際、
お弟子さんに短冊、色紙を書いてもらい、 玄関に立てた笹につけてもらいました。
その色紙や短冊を用いて紅心宗匠が掛物に仕立てられた一幅です。
紅心宗匠が笹を描かれ、中廻しは墨流し、軸棒は竹を用い、 七夕尽くしとなっています。
7月1日 (金)能と茶の湯「関寺小町」
ご機嫌よろしゅうございます。今日から7月に入りました。例年七夕の7月7日はまだ梅雨が明けきらない頃で、すっきりとしない星空に溜息がでることも。今日は七夕にちなんだ謡曲をご紹介します。「関寺小町」は、「檜垣」「姨捨」と並ぶ「三老女」の一つで、演じる者に最も高度な技術と精神性が必要といわれています。老いた小野小町は、江州関寺の山陰で小さな庵を結んで侘びしく暮らしていました。そこに国関寺の住僧が七月七日の七夕祭の日に、あたりの稚児たちを連れて小町を訪ね、歌道の物語を聞かせてほしいとお願いします。小町は断りますが、強いての僧の頼みをききいれ、歌道についての古いことなどをねんごろに語って聞かせます。寺では今宵は織女の祭が行われています。糸竹管弦、童舞の舞に小町の心も昔にかえりふらつきながらも舞を舞いつつ昔を偲んでいましたが、やがて夜明けと共に杖にすがりながら自分の庵に寂しく帰っていきます。