9月 4日(金)遠州公所縁の地を巡って
「 南禅寺大方丈 虎の児渡しの庭」
ご機嫌よろしゅうございます。
各地の寺社などでは、その庭を
「遠州作と伝えられています」
と解説されていることが多く見受けられます。
その全ての真偽は定かではありませんが、
それだけ遠州公の当時の影響が強かった
ことがわかります。
そのような「伝遠州作」の庭の中で、
この南禅寺は、残された文献等から遠州公作
と確認できる数少ない作品の一つです。
借景、遠近法、大刈込といった、三次元的な技法を駆使し、
別名「虎の子渡し」と呼ばれ,左端の大きな親虎と
その横の小さな虎の子とが瀬を渡る様子を表すと
いわれています。
中国の説話では、虎の児は三頭いれば、一頭は獰猛で、
他の児虎を食べてしまうそうです。
そのため母虎は川を渡るとき、まず獰猛な児虎を
最初に向こう岸に渡して引き返し、次の一頭を連れて
渡ります。そしてまた獰猛な児虎を連れて戻り、
三頭目の虎を連れてまた川を渡ります。
そしてまた引き返して、最後に獰猛な児虎を再び連れて
渡るのだそうです。
母虎の子を児を想う気持ちが表れた
優しく雅雅な印象の庭園です。
9月 2日(水)遠州流茶道の点法
名残(なごり)
ご機嫌よろしゅうございます。
昨年もご紹介しましたが
名残のお茶は本来、口切で開いた茶壺の茶が
残り少なくなったことを惜しむもので
そのお茶を客様に振る舞うのが名残の茶事です。
また風炉の最後で、時候も秋めいてくる頃
過ぎ行く季節を名残惜しむという意味でも
使われます。
その哀愁の気持ちを表すように、道具組では、
たとえ茶碗ににゅうがはいっていたり、
呼び継ぎのあるものでも愛おしく使用します。
趣のあるやつれた大振りな鉄の風炉など
日頃は用いるのも控えめにした
どこか風情のある、ひえ枯れた道具を用いて
この時期ならではの茶の湯を楽しみます。
また花も、風炉の季節の最後
力いっぱいに咲く残花を侘びた花入に入れます。
8月 31日 (月)撫子(なでしこ)
ご機嫌よろしゅうございます。
二十四節気の処暑を過ぎ、暦の上では
夏の暑さも収まり秋への準備が始まる頃です。
秋の七草にも数えられる「撫子」は、
茶花として風炉の時期に活躍する可憐な花です。
「撫でし子」の名の通り、愛らしく、撫でるように
してかわいがる子(女性)というところから
ついたとされています。
うるはしみ 我が思ふ君は なでしこが
花になそへて 見れど飽かぬかも
なでしこが 花見るごとに 娘子らが
笑まひのにほひ 思ほゆるかも
など万葉集には愛しい女性にその面影を重ねる歌が
多く詠まれています。
この撫子は、現在で言う河原撫子を指していました。
中国から渡来した唐撫子(石竹)に対して、
在来種を大和撫子と呼ぶのだそうです。
茶花でも、撫子だと思っていると
実は石竹だったということが時々あります。
しかしどちらも可憐で、夏の暑さを和らげ
秋の気配をさせてくれる可愛い花です。
8月 28日(金)遠州公所縁の地を巡って
「江戸城の庭」
ご機嫌よろしゅうございます。
寛永六年(1629)五十一歳
二条城の作事の途中、
江戸から急なお召しがあり、参府します。
大御所秀忠の命により、西の丸新山里
の露地・池を含む築庭の指揮を
とることになりました。
西の丸は大御所隠棲の館。
遠州公の作事奉行としての実績に加え、茶人と
しての評価の高さ故の命でした。
その後も寛永七年、十三年と二の丸庭園の
作事の指揮もとります。
その後家光の代での改修、
現在皇居東御苑に残る二の丸庭園は、
後の火災により焼失し、復元されないままに
なっていたものを
昭和三十六年から六年かけて整備、
九代将軍徳川家重の時代に作成された
庭園の絵図面を参考に造られたものです。
現在の庭園は遠州公当時のものではありませんが、
「白鳥濠」には「野面積み」という手法
で積み上げられた自然石の美しい濠の一部が残って
います。
遠州公はこの石垣を生かし、桟敷席と能舞台を
設置した斬新な設計で、招待されたお客様
を大変驚かせたようです。
8月 26日(水)遠州流茶道の点法
「拝見について」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は茶入・仕覆の拝見について
お話したいと思います。
通常拝見の声をかける際には、まずお茶入の拝見を
所望し、その後別に仕覆・茶杓拝見と
一つ間を置いて所望します。
同時に拝見を所望しないのは、
袋は茶入の付属品であるからという考えからで
本来拝見を所望するのは茶入のみでした。
松屋会記には、若き日の片桐石州が遠州公に
拝見を所望し、無言でポンっと袋をほおられた
という話が残っていますが、茶入のみならず
袋の所望をした石州に野暮なことを言うと
遠州公が思われたのでしょう。
名物裂ということで珍重された袋を見たい場合、
遠州流茶道では
「とてもの儀にお仕覆、お茶杓拝見」
と所望していました。
8月24日(月)地蔵盆
ご機嫌よろしゅうございます。
8月24日は地蔵盆の日です。
関東ではあまり馴染みのない行事ですが、
関西ではお盆と同様広く親しまれています。
これは地蔵信仰の歴史の違いによるもので
京都では室町時代に地蔵盆が大流行した一方
東京では江戸時代になって、ようやくお地蔵さんが作られた
のだとか。
子供の守り神である地蔵菩薩。
そのお地蔵様の祭りを地蔵盆といい
地域によって日にちは異なりますが、
縁日のある二十三、二十四日に行われることが
多いようです。
子供たちがお地蔵様をおまつりし、
お菓子をもらったり、盆踊りが行われたり
楽しい一日を過ごします。
また道に立つお地蔵様を綺麗に洗い、
新しい前垂れをつけ、お飾りを添えます。
地蔵盆が終わると、夏休みも残りわずか
楽しい日々はあっという間に過ぎて行き、
どこかもの寂しい気持ちになります。
静かに季節は変わっていき、
もうすぐ秋の訪れです。
8月 21日(金)遠州公所縁の地を巡って
「仙洞御所」
ご機嫌よろしゅうございます。
寛永四年(1627)遠州公は後水尾天皇の
御所造営を拝命します。
しかし、御所が完成する前に天皇が突然退位され
七歳の皇女(明正天皇)に皇位を譲ります。
退位された後水尾天皇と東福門院お二人のために
仙洞御所、女院御所を作ります。
仙洞とは退位した天皇のお住まいを指す言葉です。
また寛永十一年(1634)遠州公は
仙洞御所の御庭泉石構造の奉行を拝命し
力を注ぎます。
これまでに例のない直線的な護岸をつくり
すっきりとした斬新な美しさを作り出しましたが、
現在の庭は度重なる改修で大きく姿を変えています。
静岡県・金谷のお茶の郷博物館では
仙洞御所の東庭を、造園当時のまま
再現しています。
現在は出島となっている部分も
当時のままの中島で作られており、
遠州公の作庭の特徴がよくわかります。
8月19日(水)遠州流茶道の点法
「長板(ながいた)」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は長板をご紹介します。
長板は台子の天板を略して皆具
(風炉釜・水指・杓立・建水・蓋置)
などをのせる長方形の板のことを指します。
遠州流茶道では主に真塗の長板を
広間において使用します。
但し、天板が省略されているため、
名物扱い(棚に飾り付けをする等)
の点法は致しません。
正式には四ツ組(水指・杓立・建水・蓋置が
同種、主に唐銅)のもので行いますが、
大寄せの茶会などでは簡略し、風炉・蓋置
のみを飾り付けして、さらに水指・蓋置・建水
を、唐銅ではなく様々な陶器を用いることが
あります。
8月17日(月)阿波踊り(あわおどり)
踊る阿呆にみる阿呆
同じ阿呆なら踊らなそんそん
の囃子で有名な阿波踊り
今年は8月12日から15日にかけて開催されました。
阿波おどり(あわおどり)は
徳島県を発祥とする盆踊りで、日本三大盆踊りの一つに
数えられます。
約400年の歴史をもつこの徳島阿波踊り
天正14年(1586年)蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)が
徳島城を築いたとき、祝杯を重ねた職人や町の人々が
「めでたや・めでたや」と踊り狂ったのが始まりとする
「蜂須賀入城起源説」などありますが
起源は諸説あり、いまだはっきりしていません。
江戸から明治時代の頃にかけて、
莫大な資産を築いた阿波の藍商人が
徳島の花柳界で型破りの豪遊をし、
全国から集まる商人の接待などにも阿波踊りを用いて
阿波踊りをより洗練されたものに育て上げたといいます。
江戸後期には厳しく取り締まれれ、
踊っていた武士が咎めを受け
幽閉されたこともあったそうです。
8月 14日(金) 遠州公所縁の地を巡って
「御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は「御香宮神社」について
ご紹介します。
御香宮神社は、遠州公の居宅であった
伏見奉行所の北側にありました。
境内から「香」の良い水が涌き出たことから
清和天皇より『』の名を賜った神社です。
遠州公が例祭に、参拝した時
「おそらくこれほど見事な椿は他にない」
とつぶやいたことで名付けられた
「おそらく椿」と呼ばれる
樹齢約400年の五色八重散椿があります。
伏見奉行所は幕末の戦火により被害を受け、
庭園も手水鉢は変色、石も表面が焼けるなどしました。
市営団地建設の際に、この遠州公が手がけた
奉行所の庭園の一部が見つかり、御香宮神社に
庭園の石を移して庭園が再現されました。
現在「遠州ゆかりの石庭」として親しまれています。
鶴亀式の枯山水で枯滝の三尊を連続させた石組、
書院手前には大きな手水鉢が配置されています。