2月 6日(金)遠州公出生の逸話
ご機嫌よろしゅうございます。
遠州公は近江小堀村で、新介を父に生まれた…
とご紹介しましたが、
実は、小堀遠州は浅井長政の忘れ形見である
という逸話が伝わっています。
浅井長政は、もともと遠州公の父新介が仕えており
織田信長に攻められ、落城した小谷城の悲劇は有名です。
その際、長政の長男万福丸は極刑となりますが
お市の方とその娘三人が助け出されます。
このとき実はお市の方にはもう一人、
生後間もない赤ん坊がいたのです。
その乳飲み子は、小谷城落城の際乳母に助けられ
無事脱出し、当時神照寺に出家していた
遠州の父新介に預けられたというのです。
そしてその乳飲み子が後の遠州公になったのだとか
真相は定かではありませんが、
遠州公が偉大な功績を残した故に生まれた逸話では
ないでしょうか。
2月 4日(水) 濃茶
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は濃茶点法についてのお話を
茶道には薄茶・濃茶とあり、一般的に現在は
抹茶といわれてだされるものは薄茶が多いですが
本来抹茶といえば、この濃茶を点てるのが
正式な姿で、茶の湯が出来た頃には、お茶といえばむしろ
この濃茶のみ
であったと思われます。
点法で「お茶を一服差し上げます」
という挨拶はこの濃茶を指すわけです。
薄茶の時とは異なり、一服のお茶が点つまでに
主客共に精神を張り詰めて、一挙手一投足に
集中し、釜の煮え音、茶を練る音、柄杓から湯の落ちる音
までもご馳走に楽しみます。
遠州流の濃茶でのお点法では、
お茶の香りが飛ぶのを避けるため
お茶を点てている途中で、お湯をくわえないこと
(2014年 11月 26日 参照)
茶入の巣蓋は景色として、お客様に見えるように
置くことが特徴的です。
また中水の後にはそれまで窓に掛けていた簾を
茶室外から、一気に巻き上げます。
明るい日差しが入ることにより、室内がパッとあかるくなり、
一服の茶に
集中していた緊張感が溶け、 開放感が生まれます。
2月2日 (月)
ご機嫌よろしゅうございます。
明日は節分。
旧暦では立春の前日、
大晦日に当たる大変重要な行事でした。
この節分で穢れを払い、新しい春を迎えます。
古くは中国から「追儺」という行事が
厄払いの行事として宮中行事として
伝わり、それが次第に民間でも行なわれるようになり
現在の節分の豆まきへと変化していきました。
さて、この節分では豆まきで鬼を追い払いますね。
邪気や穢れを鬼に見立てて、部屋から追い出すわけですが
それではこの鬼の姿を思い浮かべてください。
どんな格好をしていますか?
赤い鬼の頭に二本の角と鋭い牙
ふんどし(?)は黄色い虎模様
鉄の棍棒を持って仁王立ち
鬼が住むのは鬼門とされています。
鬼門は方角でいうと北東、
これは子(ね)を北として十二支を時計回りに配置していくと
丑(うし)寅(とら)となります。
ここから、鬼は牛(丑)の角と虎(寅)の牙を持ち、
虎の皮のふんどしをしているのだとか。
ただ強そうだから、
というわけではなかったのでした。
いつも見慣れた鬼の姿にも、
こんな理由があるのですね
。
1月 30日(金) 遠州公ゆかりの地に建つ小学校
「南郷里小学校」
ご機嫌よろしゅうございます。
先週は遠州公の故郷小堀村についてご紹介しました。
この小堀村を学区にもつ南郷里小学校では
地域所縁の人物である遠州公にちなんだ学習に取り組み、
遠州流茶道の指導や、遠州公の茶の湯の心を道徳教材として
取り上げるなどの活動をしています。
この学校の校章は七宝花菱をモチーフにされており、
また1975年に開学百年を記念して作られた校歌の二番には
二、ゆかりもふかい 遠州公
歴史のかおり 今もなお
条里の土は はろばろと
知恵のいずみの わくところ
と遠州公が登場しています。
この開学百年記念の際には
「育ての泉」というモニュメントも校内に作られました。
こちらはゆかり深き遠州公の斬新な作庭の創意工夫を
取り入れて作られた湧泉式のつくばいから水が
流れる仕組みになっています。
遠州流茶道では遠州公の教えを学びながら
茶の湯の心、思いやりの心を学んでいます。
同様に、この南郷里小学校を毎年卒業する100名を超える生徒達が
遠州公の心を学び、社会に巣立っていきます。
遠州公の教えはこうして地域の方にも受け継がれていたのでした。
1月28日 (水) 重茶碗(かさねちゃわん)
ご機嫌よろしゅうございます。
薄茶のお点法が一通りできるようになると
次に稽古するのが「重茶碗」です。
このお点法は遠州流茶道特有のものです。
お茶事の薄茶のとき、数人のお客様に
次々とお茶を点てていくための点法で
同じ種類の茶碗を重ねて使用します。
遠州公が伏見奉行屋敷で行った茶会の時は
薄茶の点法は遠州公の家臣がつとめ、
三島茶碗のような平茶碗を用いて
お客様の人数分重ね、何服も点てていました。
重ね茶碗はその形式を更に洗練したもので、
遠州公の切形(見本)に従って作られた茶碗
で現在もお稽古されています。
薄茶のお点法と異なるのは
茶巾・茶筅の仕組み方が茶碗手前になり、
茶筅は穂先を向こうへ出して根元を茶巾に
つけて入れます。
茶杓も重ねた茶碗の上では不安定なため
表を下に向けて茶碗右に乗せます。
茶碗の扱い方も通常と異なりますので
注意が必要です。
1月26日 (月)若草焼き(わかくさやき)
ご機嫌よろしゅうございます。
1月24日、奈良の若草山では
冬の代表的行事である山焼きが行われました。
この山焼きの起源には
・山上の鶯塚古墳から幽霊が出没するため、
1月までに山を焼かなければ災が起こる。
・東大寺と興福寺による領地争いから
・昔からある野焼きの遺風を伝えたもの
など諸説あります。
打ち上げ花火を合図に、草地に一斉に点火されます。
新聞などに掲載される写真のように
夜空を赤く染め上げるような情景は
大変美しいものですが
実際は、その光景と少々異なり
ゆっくりと静かに広がる炎が線状に見えるそうです。
1月 23日(金)遠州公誕生の地「小堀村」
ご機嫌よろしゅうございます。
遠州流の流祖である小堀遠州は、
近江長浜の小堀村に生まれました。
遠州公を輩出した小堀家は室町時代
中頃から資料に現れる小堀村の土豪でした。
天正7年(1579年)に誕生の後、
遠州公の父・新介正次は、
豊臣秀吉の弟である秀長に従って
但馬や播磨国(現在の兵庫県)に赴き、幼少の
遠州公も父に従って一旦小堀村を離れます。
従って、この小堀村での生活は
あまり長いものではありませんでした。
この地に再び関わりをもつのは、
元和5年(1619)
近江国浅井郡に一万石程の領地を得て、
小室藩の基礎を築き、また同8年には近江国奉行となり、
この地の幕府の人間としての最高責任者になります。
現在の小堀町では、遠州公にちなんだ街づくりが行われ、
小堀遠州出生地顕彰碑や
遠州流庭園などがつくられています。
来週はこの遠州公所縁の地に建つ南郷里小学校での
取り組みについてご紹介します。
1月 21日 (水)薄茶(うすちゃ)
ご機嫌よろしゅうございます。
茶道に入門して最初に習うのは
お点法の基本となる薄茶です。
そして稽古が進むにつれ、濃茶や
難しい点法を習うようになり、
茶道を習い始めてしばらくすると、
初めに習った薄茶の点法に慣れ、
自分のくせが往々にして現れることがあります。
点法とは薄茶にありときくものを
粗相(そそう)におもう 人はあやまり
という言葉があります。
茶道の正式な形であるお茶事では
寄付(よりつき)→迎付(むかえつけ)→初入→
初炭→会席→中立→濃茶→後炭→薄茶
という流れの中、主客共に緊張感を
持って時が流れます。
全ての流れを終えるまでに約4時間。
その最後に当たる薄茶では、それまでの緊張も
溶け、リラックスした雰囲気の中で
薄茶をいただきます。
その日の話題も弾み、亭主はお客様とお話を
しながら薄茶を点てることになります。
お話ばかりに夢中になり、手元がおろそかになることや、
点法に夢中になっていてはお客様との話も
弾まない。
如何なる状況でも平常心で点法ができる
それが薄茶に必要な心といえるでしょう。
1月 19日 (月) 一休さんと善哉(ぜんざい)
ご機嫌よろしゅうございます。
冬に温かい善哉(ぜんざい)をいただくと
体も温まり、幸せな気持ちになりますね。
この善哉、実はとんちで有名な一休さんが
関係しているのです。
京田辺市にある「酬恩庵」。
もともと臨済宗・南浦紹明が帰朝後
禅の道場をここに建てたお寺でしたが、
その後荒廃していたところ、一休禅師が再興し
南浦紹明の恩にむくいるという意味で
「酬恩庵」と命名しました。
禅師はここで後半の生涯を送り
八十一歳で大徳寺住職となっても、この寺から
大徳寺に通ったのだそうです。
こんな経緯からいつしか
「一休寺」と呼ばれるようになりました。
さてこの一休寺で、一月一日生まれの一休禅師に
ちなんで毎年一月に行われる行事があります。
一年間の誓いの言葉を奉納し、自分自身の目標を立てて
新たな一年を過ごそうというものです。
最後に、一椀祈祷奉納を行い、
善哉(ぜんざい)が振舞われます。
この善哉という呼び名、大徳寺の住職から
お餅の入った小豆汁をご馳走になった一休禅師が、
その美味しさに
〝善哉此汁(よきかな この汁)〟
と言われたことが始まりといわれています。
1月16日(金)遠州公のゆかりの地を巡って
ご機嫌よろしゅうございます。
遠州流茶道の流祖小堀遠州は
天正七年(1579)に生まれ、
正保四年(1647)に六十九歳でなくなります。
近江に生まれ、幕府の官僚として
また茶の指導者として、日本各地と
関わりを持っていきました。
この六十九年の生涯の中の
遠州公ゆかりの地を
当時と今の姿を追いながら
一年間皆様と共に見ていきたいと思っております。
大名茶人にして江戸の優れた官僚であった
小堀遠州。
その功績は広く知られていますが
まだまだ日本の各地で、その地域の人のみが知る
遠州公の逸話や伝説もあるのではないかと
思います。
もしこのメルマガをご覧になって
なにかご自身の身の回りの地域で、遠州公にまつわる
お話をご存知の方がいらっしゃいましたら、
是非お知らせいただきたいと思います。
ご出張、ご旅行の際に遠州公の関わった場所が
近くにあるかもしれません。
そんな時このメールマガジンを思い出して頂けたら
幸いです。