3月2日 (月)明日は三月三日
ご機嫌よろしゅうございます。
明日は三月三日雛祭りですね。
中国の習俗が伝わり、少女の健やかな健康を
祝う行事へと変化した雛祭りですが、
陰暦の三月三日には「踏青」という行事も
行われていました。
これも中国から渡ってきた行事で、
野原に出かけ、青草を踏んで遊ぶという
今で言えばピクニックのような行事で
陰暦初春から中春にあたる
正月七日・二月二日・三月三日に行われました。
江月和尚が、遠州公の次男である権十郎篷雪の
道中傘と杖の絵に賛をした軸が残っています。
その讃に
上巳佳辰在武陵(じょうみのかしんぶりょうにあり)
芒蛙徒破本無能(ぼうあいただにやぶれてもとむのう)
今朝知禰踏青節(こんちょういよいよとうせいせつをしる)
埜草深中且過僧(やそうしんちゅうかつかそう)
三月三日客武州野 求愚作者也
とあります。
ちょうど三月三日に江戸にいた江月和尚が
踏青節の故事にちなんで友人と青草を踏み
遊宴されたのでしょう。
2月27日 大和郡山での遠州公の出会い
ご機嫌よろしゅうございます。
先週は大和郡山についてご紹介しました。
今日はその地で遠州公に影響を与えた
いくつかの出会いをご紹介します。
遠州公がこの地に移り住んで
十歳の歳、
六十七歳の利休に出会います。
主君秀長が秀吉の御成の際に茶の湯で
もてなすため、その指導に訪れたのでした。
秀長の小姓であった遠州公は、茶会当日
秀吉の給仕をする大役を果たします。
利休切腹の三年前のことです。
十五歳、元服をした遠州公は
利休・織部と茶道の道を極めた人物が参禅した
春屋宗園の下で修行します。
後二十九歳で「宗甫」、同時期に「孤篷庵」の号
を与えられます。
遠州公の茶会の中で一番多く掛けられた墨跡も
春屋禅師のものです。
そして同じ頃、茶の湯の師として古田織部の
門を叩きます。後に伏見に住まいを移してからは
織部の屋敷のあった木幡まで一キロ程度の
距離になり、一層師弟関係を深めていきます。
十六歳にして、既に松屋三名物の一つ
「鷺の絵」を拝見するなど、若いながらも既に
後の大茶人への道の第一歩を踏み出したのでした。
2月25日 (水) 台目切
ご機嫌よろしゅうございます。
お濃茶のお点法を稽古すると
広間と台目のお席で若干置き位置などが
異なり、戸惑われることがあるかもしえません。
台目とは台目切りの茶室でのお点法の仕方のことで
お稽古場では台目棚と呼ばれるものを
置いてお稽古なさることも多いかと思います。
特に茶事において、濃茶はこの台目切りの茶室で
行われることが多いものです。
台目については
【台目畳は、1畳の長手から台子の幅と風炉先屏風の
厚み(一尺五寸)とを切り取った畳のこと。
(略)紹鴎が好んだというが不詳。】(「茶室の見かた」)
【このような構えの最も早いのは、利休が大坂に
設けた深三畳台目である。中柱をもつ台目構えは
台子はもちろん、いかなる「棚」も使用させない
構えであって(略)点茶構えに対する草体化の
究極的な一つの姿であった。】
(「角川茶道大事典」)
などとあるように、侘び茶らしい構えのお点法になります。
畳が短くなる分、手元の道具の位置関係も
随分変わってくるので、注意が必要です。
書院・広間に比べて、侘びの意識で道具が組まれていることも
注目なさってお稽古してみてください。
2月 23日 (月)江戸の野菜 小松菜
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は「小松菜」についてご紹介します。
この野菜、江戸で取れた野菜で、しかも
名付け親はあの将軍吉宗ということを
ご存知でしょうか?
江戸初期には武蔵国葛飾郡(現:江戸川区)
の小松川付近で多く栽培されていました。
享保4年(1719年)に八代将軍吉宗が小松川村に
鷹狩りに訪れました。
この小松川村は「鶴御成(つるおなり)」
と呼ばれる鶴の猟場の一つで、
当時鶴の肉は鳥類の中でも最高のご馳走でした。
この小松村の香取神社を御膳所(休憩や食事をする場所)
としていたため、神主の亀井和泉守が、
地元で採れる青菜を入れたすまし汁を吉宗に献上しました。
吉宗はこの青菜の味と香りを大変気に入り、その名を尋ねました。
「とくになまえはついておりません」と答えると、
「このようなうまい菜に名前がないのは残念なことだ
この村のなまえをとって、これからは小松菜と名付けよ」
と命じられました。
やがてこの将軍が名づけた小松菜の
評判は全国に広がっていきました。
現在では一年中手に入る野菜ですが、
当時は冬の貴重な緑黄色野菜で、
霜が降りる頃からおいしくなるため、
昔は冬菜・雪菜などと呼ばれていました。
2月 20日(金)遠州公少年時代
ご機嫌よろしゅうございます。
遠州公が小堀村で産まれ、
過ごした時は、そう長くはありません。
天正十三年(1585)
豊臣秀吉が、弟秀長と共に五千人の家来を
連れて大和の郡山城に入城します。
遠州公の父である新介も秀長の八老中の一人
として城内に屋敷をもらい、
遠州公も共に郡山に移り住みます。
遠州公が七歳から
十七歳までの約十年間を
この郡山で過ごすこととなります。
織田信長の支援を受けた筒井順慶が大和を統一し、
天正8年(1580)筒井から郡山に移り、
明智光秀の指導で城郭の整備にかかりました。
この郡山城と光秀の作った福知山城に共通の特徴があります。
転用石といって城郭の石垣に仏塔や墓石など、多目的で
使用されていた石をわざと見えるように、使用したものです。
ところが、本能寺の変から山崎の合戦
(ここで洞ヶ峠を決め込むという言葉が生まれます)
順慶の死、後を継いだ定次の伊賀上野へ国替と
状況は次々と変化していきます。
秀長が入城する五年前に、織田信長はここ
郡山城以外の大和の城を全て取り壊していたため
唯一の城下町であり、更に秀長は奈良での味噌・酒・木材の
販売を禁止し、郡山に限る政策を行ったため、
郡山は更に栄えていきます。
また、堺・奈良と並んで茶の湯の盛んな土地でもありました。
ここで遠州公は後の人生を方向付ける
いくつかの出会いがありました。
来週はその出会いについてご紹介します。
2月 18日(水) 蓋置
ご機嫌よろしゅうございます。
濃茶で使用する蓋置は基本的に青竹の
「引切り」を使用します。
(書院で棚を使用する場合などは
砂張などの蓋置を使用する場合もあります。)
これは、その点法一度きりのために用意された
ことを示し、その竹の青さが「清浄」を表します。
これは本来木で拵えたものの多くに当てはまることで
茶筅や柄杓、黒文字なども、使い切りとして
作られたものでした。
竹蓋置は、武野紹鴎が節合一寸三分に切り、
面桶の建水とともに水屋に使っていたものを、
利休が一寸八分に改めて茶席に使用したといわれています。
蓋置に使用される真竹は、一本の竹が2~3m程で
その内節は2~3個ほどしかありません。
普段何気無く使用している大変貴重なものです。
2月 16日 (月)西行と桜
ねがはくは花のもとにて春死なむ
そのきさらぎの望月の頃
ご機嫌よろしゅうございます。
この歌は平安の歌人西行法師の詠んだ歌です。
西行は裕福な武士の家系に生まれます。
院直属の名誉ある精鋭部隊「北面の武士」に選ばれ
武勇に秀で歌人としての才もあった西行の名は、
広く知られていました。
しかし、西行は22歳の若さで、全てを捨てて出家
してしまいます。
この歌は60才代中ごろの作といわれています。
2月15日はお釈迦様の入滅の日で
平安時代から涅槃会など、
お釈迦様の遺徳を偲ぶ習慣がありました。
このお釈迦様が涅槃に入ったとされる
「きさらぎの望月」のころに
西行は「死なむ」と詠んでいます。
悟りの世界に憧れ、全てを捨て出家した後も、
現世への執着を捨てきれずもがきつつ
気がつくと花や月に心を寄せ歌を詠んでいた西行。
実際に亡くなったのは
七十三歳で1190年の旧暦2月16日。
(新暦でいうと3月24日頃)
「きさらぎの望月」の翌日。
まさしく「そのきさらぎの望月の頃」に
亡くなったのでした。
さてその死に際して、桜は咲いていたでしょうか?
今となっては定かではありませんが
江戸時代に入って西行を慕う僧がその墓を発見し、
西行が愛した桜の木を、墓を囲むように千本も植えて、
心からの弔いとしたそうで、
現在では千本以上もの桜が墓を抱く山を覆っています。
2月 13日 (金)伊吹大根
ご機嫌よろしゅうございます。
遠州公の茶会記には、菓子として
きひ餅 ささけ掛テ
くりの粉餅 伊吹大こん
はけ目鉢ニミつくり
(「小堀遠州茶会記集成」年不詳十月八日)
という記載があります。
このうち、息吹大こんとは
小堀村にある伊吹山でとれる大根です。
甘辛く醤油煮にして口取りとして
お菓子につけています。
伊吹山のふもとで古くから栽培されてきた
伝統野菜の伊吹大根。
形がユニークで、葉と首が赤紫色を帯びていて
根は太短く丸みをもっています。
「峠大根」とか、先端がねずみの尾のように細長いことから
「ねずみ大根」とも呼ばれていました。
辛味の強い大根で、そばの薬味としても江戸時代から
評判になっていたそうです。
この故郷の大根を、自身の茶会に用いていたことが
茶会記から読み取れます。
この伊吹大根、しばらく作られておらず
幻の大根となっていましたが、近年郷土野菜として
復活しました。
しかし他との交雑を防ぐ必要があり純粋種の
生産量は多くないのだそうです。
2月11日 (水)茶入の巣蓋
ご機嫌よろしゅうございます。
昨年、3月15日にご紹介した「在中庵」茶入の
巣蓋にこんなエピソードがあります。
巣蓋とは象牙の真ん中に通る神経を景色にして
作られた茶入の蓋です。
当時象牙自体貴重でしたが、この「巣」を景色にした
ものはとりわけ珍重されました。
利休から遠州公の時代、この「巣蓋」はまだ存在使用されず、
織部が最初に取り入れたと、遠州公が語っています。
そして、遠州公は中興名物茶入れを選定し、
歌銘をはじめ、箱・挽家、仕覆といった次第を整えていく際に、
牙蓋も一つの茶入れに何枚も付属させており、多様性をもたせる為に
巣のある蓋を好んで用いました。
牙蓋の景色として巣を取り入れたことにより、
巣を右に用いている遠州公に
前田利常公が理由を尋ねたところ、
「客付き(点前座からみて、お客様からみえる方向)
の側に景色を用いるのが自明の理」
と答えたそうです。
遠州公のお客様への配慮、
「綺麗さび」の美意識を感じるお話です。
このお話を知ると、美術館などで
遠州公所縁の茶入が展示されていると
つい巣蓋の巣の位置に目がいってしまいます。
日々の稽古でも蓋のの向きに注意して
お稽古なさってください。
2月 9日 (月) 梅の花
ご機嫌よろしゅうございます。
そろそろ宗家の庭にある紅梅も蕾を
膨らませてくる頃となりました。
その昔、遠州公の愛した紅梅も、
伏見奉行屋敷内にあった成趣庵の庭で
見事な花を咲かせていたようで、
遠州公が親しい友人に送った手紙には
成趣庵紅梅半ば開きにて候
(略)
御見捨て候て 花を御散らせ
有るべき事にてはあらず候
訳;庭の紅梅もそろそろ満開となります。
この見頃の梅をお見捨てなきように
と、情趣溢れる文面で手紙をしたためています。
陽春に先駆けて花をつけるこの花を、日本人は
古くから愛し、万葉歌人も多くの歌を
残しています。
天平・奈良期当時の梅花といえばほとんどが
白梅であったようです。
平安時代にも紅梅は珍しかったようで、
「むめ」「紅梅」と区別していました。
そして日本では、年の最初に咲く梅を兄
最後に咲く菊を弟といい
花を育てる雨は父母と表現します。
厳しい冬が過ぎ、暖かい春がきたよと
私たちに告げてくれる
梅の花です。