4月 17日(金)
遠州公所縁の地を巡って 「将軍秀忠の御成」
ご機嫌よろしゅうございます。 龍光院に孤篷庵を営んだ年の十一月八日。 遠州公の江戸屋敷に将軍秀忠の御成がありました。 神田と牛込門内にあった遠州公の屋敷のうち 御成があったのは日常の屋敷である神田でした。 現在でいう千代田区駿河台三丁目辺り、オフィスビルが 立っています。 八畳敷の書院に二畳敷きの上段の間格天井などの 豪華な装飾が施された部屋に炉が切られており、 秀忠にはこの書院でお茶を差し上げたと思われます。 将軍が公式に臣下の屋敷を訪問するこの御成は、 将軍の威光を示し、主従関係を再確認する場として 機能していました。 もともと室町将軍家で行われており、それに倣い 新たな嗜好を加え、秀吉も行っていました。 特に二代将軍秀忠は、茶事を公式の行事にとり入れた 「数寄の御成」を展開します。 遠州公江戸屋敷御成の日。 この日秀忠は織部の茶会に出席しており その直後の御成であったようです。 織部から遠州へ 茶の第一人者としての将軍指南引き継ぎの布石と なったであろうことが推察される御成でした。
4月 15日 (水)遠州流茶道の点法
「二種点(にしゅだて)」
ご機嫌よろしゅうございます。
濃茶のお稽古で
「二種点」というお点法があります。
「二種」とはお茶の種類が二種類という意味で、
文字通り、二種類のお茶をお点てする
お点法です。
昔、お客様に招かれたお客様が、手土産として
お茶を持参したりすることがありました。
当時お茶は大変貴重なものです。
11月の口切から使用していたお茶も、
年をまたいで徐々に炉の終わりの季節ともなると
香りも落ちてきます。
そんな時、招かれたお客の方で、手持ちのよい
お茶があったり、はたまた大名など位のある方などが
お茶を持参し、亭主はいただいたそのお茶を二服目に
その理由を伝えてお客様にお点てする
これが二種点です。
一種目は亭主がもともと用意していたもので
一服差し上げ、二種目はご到来の御茶でございます。
ということで、予め茶入を用意していないので
真の棗で出すということになります。
二服点てることが予め分かっているので、
湯温を下げないように中水をしないこと
二服目は少し小服に加減し、さっとお点てすることなど
注意します。
4月 13日 (月) 曳山祭り(ひきやままつり)
ご機嫌よろしゅうございます。
この時期遠州公ゆかりの地・長浜では
日本三大山車祭の一つである、曳山祭りが行われます。
この祭りは国の重要無形民俗文化財に
指定されています。
安土桃山時代、長浜城主であった羽柴秀吉
(後の豊臣秀吉)に初めての男の子が生まれ、
喜んだ秀吉が城下の人々に金を
振る舞いました。
町民達はこれをもとに十二台の山車を作って
八幡宮の祭礼に曳き回したのが
この祭りの始まりといわれています。
江戸時代に入ると、曳山の舞台で子ども歌舞伎が
演じられるようになりました。
これがまた見事で、アメリカ大統領であったクリントンから
ホワイトハウスへ招待されたこともあるそうです。
秀吉に男子が生まれたのは天正17年(1589)、
遠州公はその頃十代の少年です。既に
大和郡山に移り住んだ頃かと思われますが、
それにしても遠州公の時代から、今も続く
お祭りがあることに、驚きと喜びを感じます。
4月 10日 (金)遠州公所縁の地を巡って
「孤篷庵(こほうあん)」
ご機嫌よろしゅうございます。
遠州公は慶長十七年(1612)三十四歳
龍光院に江月宗玩を開山として孤篷庵を創設します。
この孤篷は二十代の時に
春屋宗園禅師から賜った号で
以下の偈が残っています。
扁舟聴雨 漂蘆萩間(扁舟雨を聴いて、芦萩の間に漂う)
天若吹霽 合看青山(天もし吹きはらさば、青山を看るべし)
故郷琵琶湖に漂う孤舟にたとえ
いまだ禅において修行の道なかばの状態にある遠州公の姿を、
「天がもし風雨を吹き払ったならば
すがすがしい青山を看ることができる。
すなわち禅の境涯に達することができれば
その道で成功を収められるであろう。」
と将来の遠州公の境涯を看破し、
教え導いています。
春屋禅師は遠州公が最も深く帰依した師で、
「宗甫」「大有」の号も師からいただいています。
生涯の茶会において一番多く掛けられた墨跡も
春屋禅師であり、正月三が日の掛け物は必ず
師の墨跡を掛けたそうです。
後、寛永二十年(1643)遠州公六十五歳のおりに、
現在の地に孤篷庵を移築し、
晩年を過ごすことになります。
4月 8日 (水)遠州流茶道の点法
「二服点て」
ご機嫌よろしゅうございます。
お茶を飲み終わり
「亭主から今一服いかがですか?」
と尋ねられた際、是非もう一服頂きたい
と所望することが出来ます。
その際亭主は二服目をお客様にお点てします。
これが「二服点て」のお点法です。
お客様は所望の際
「大変美味しく頂戴しましたので、
今一服お願いします。」
と返答します。この返事、以前は
「とてもの儀にて、今一服」
と答えたのだそうです。
武家茶道らしいですね。
炉の時期では、中仕舞いを解き、
中水をした後なので、お湯を一柄杓茶碗に汲んだら
湯加減が悪くならないように
釜の蓋に茶巾がのった状態のまま、
すぐに蓋をしめます。
また水指の蓋も炉の時期は
空けた状態では中の水が見え、寒々しいので
一度閉めて点法を行ないます。
4月 6日 (月) 青柳(あおやぎ)
青柳の 糸よりかくる
春しもぞ 乱れて花の ほころびにける
ご機嫌よろしゅうございます。
桜の美しい姿を愛で、春の季節を満喫する
頃ですが、同時に青々とした柳の揺れる様を
眺めるのも楽しいものです。
この和歌は
古今集 春上 紀貫之(きのつらゆき)
の和歌です。
青柳が糸を縒(よ)り合わせたように
風になびいているこの春に、
一方では桜の花が咲き乱れていたことよ。
柳と桜は共に都の春を彩る代表的なもので
風になびく青柳の細枝と、咲き乱れる桜の花の
緑と紅の色の対比が、都の春の風景を色彩豊かに
とらえた和歌です。
禅語にも「柳緑花紅(やなぎはみどりはなはくれない)」
という言葉があります。
瀬戸間中古窯に遠州公が「青柳」と銘命した
茶入があります。
釉薬の流れがまさしく青柳の細い枝のような景の
茶入です。
4月 3日 (金)遠州公所縁の地を巡って
「駿府城」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は「駿府城」についてご紹介します。
天正期、駿府を拠点にした家康は
駿府城を四年かけて築城
しかし小田原の北条征伐で戦いに勝利した
家康は、関東に国替えとなって江戸に移ります。
家康は完成間近であった
駿府城に入ることが出来ませんでした。
そして慶長5年〔1600〕の関ヶ原の戦いに勝利した家康。
今度は駿府城を身内の内藤三左衛門信成に与えます。
家康が大御所として駿府城主となると、内藤は
長浜城主として琵琶湖の長浜に移りました。
慶長12年秀忠に将軍職を譲り大御所となった
家康はいよいよ修築を終えた駿府城に移り住みますが、
間も無く火災にあってしまいます。
そこで年が明けた慶長13年、
遠州公が駿府城の作事奉行を命じられます。
その功により
従五位下諸大夫遠江守に任命され、
以後小堀遠州と呼ばれるようになるわけです。
遠州公30歳
この一年、遠州公は駿府に滞在していたようです。
また織部も同様に駿府におり、家康へ茶の湯指南や
茶会を催していたようです。
そして残念ながら遠州公の手がけたこの駿府城も
今度は家康没後の寛永12年(1635)
茶町からの出火が原因で城内に飛び火、
豪華絢爛な天守や御殿をほとんど失ってしまいました。
駿府城がどんな城であったのか、わからなくなってしまった
部分も多くありますが、遠州公と大工頭であった中井正清が
後に手がけた二条城とこの駿府城は同じ作り手による
ものであることから、内部の意匠その他が酷似していたと言われ
二条城からその当時の様子を偲ぶことができる
と言われています。
現在では本丸、二ノ丸部分は駿府公園として整備され、
巽櫓、東御門の復元もされ一般に公開されています。
4月1日 (水)遠州流茶道
春の茶の湯
ご機嫌よろしゅうございます。
いよいよ四月に入り、茶の湯も点法で
炉を使用する最後の月となりました。
春爛漫、可憐な草花が咲き始め、
と同時に口切りから床の間の主役であった椿の花がいよいよ終わりを告げます。
新芽がでるまで古い葉を残す譲葉(ゆずりは)
も、新しく芽を出し始めた若々しい
緑に代を譲り、古い葉を落とし始めます。
茶席の設えとしては、
透木釜や釣釜が春の気配を感じさせますが、
茶席でお出しするお菓子も、春は一層華やかで
心が躍ります。
宗家ではよく「花衣」(赤坂塩野製)をお重に持って
野点のような風情でお菓子をいただきます。
また「若草」と呼ばれる松江の銘菓があります。
新緑を思わせる美しい緑と柔らかな
求肥が楽しめるお菓子です。
こちらは松平不昧公が一月から四月の茶席に
使われたと言われています。
不昧公の
曇るぞよ 雨降らぬうちに摘みてこむ
栂尾山の春の若草
の歌からついた銘です。
他にも春をイメージして作られた菓子はたくさん
ありますので、是非皆さんも探してみてください。
茶席の道具と共に、菓子は季節を感じさせ
私たちの目と舌を楽しませてくれます。
3月 30日(月)桜ちるの文
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公所持の掛物「桜ちるの文」
をご紹介します。
定家筆のこの掛物には
前十五番歌合にある紀貫之の
桜散る木の下風は寒からで
空に知られぬ雪ぞ降りける
の歌と凡河内躬恒の
我が宿の花見がてらに来る人は
散りなむ後ぞ恋しかるべき
の二首の上句が書かれていることから
「桜ちるの文」と呼ばれるようになりました。
遠州公は定家を崇拝し、その心も自分のもの
とするため定家様の書体をしたためたことは
よく知られています。
寛永13年、江戸品川林中のお茶屋が完成し
遠州公は三代将軍徳川家光に献茶をしました。
この際に床の間に掛けられた掛物が、
この「桜ちるの文」でした。
この茶会によって遠州公が将軍茶道指南役として
天下一の宗匠として認められた、
最高の晴れ舞台となったのでした。
3月 27日 遠州公所縁の地を巡って
伏見での出会い
茶碗「六地蔵」と井戸茶碗
ご機嫌よろしゅうございます。
六地蔵の地で出会ったものの一つに
小井戸「六地蔵」があります。
遠州公が伏見六地蔵で見出したことから
名付けられた茶碗で、小井戸の代表的な名碗です。
遠州公は常に傍らに置いて愛用したといわれています。
後に末弟の仁衛門左馬助政春に渡り、京都の小堀家に
代々伝わってきましたが、幕末になって売り立てられ
以後所有者を転々とし、
現在は泉屋博古館に所蔵されています。
さて、一井戸・二萩(楽)・三唐津
などとも言われるように、
茶碗の中でも井戸は筆頭に挙げられるものです。
井戸茶碗は高麗茶碗の一種で、朝鮮王朝時代の初期から
中期頃にかけて作られ、室町時代以降に
日本に伝わったとされています。
大井戸、小井戸、青井戸などの種類があり
なかでも大井戸は名物手とも呼ばれ
大振りでたっぷりとした茶碗です。
意外なことにこの大井戸の茶碗、
遠州公は所持していませんでした。
それは大井戸は大大名に、という
茶の湯の第一人者としての謙虚さと、
粋な考えからであろうと思われます。