6月 3日 (水)遠州流茶道の点法
「香所望」
ご機嫌よろしゅうございます。
梅雨の時期、湿気が多くなり過ごしにくく
感じる一方、お香を聞くにはとても
よい環境となります。
今日は通常のお点法の話から離れて
お香についてお話ししたいとおもいます。
最近ではあまり行われることはないようですが
お茶事の際には花所望、炭所望など
お客様に所望をすることがありました。
そのうちの一つに香所望があります。
お香は炭の匂いを消したり、
空気を清浄にするという意味もあり、
炭点法の最中に火中にくべられます。
また香炉を飾る場合もあります。
茶室に入った際、棚に聞き香炉が飾ってあった場合、
お客様は香炉を拝見し、それから香の所望をします。
亭主は自分の香を焚き、その後お客様にも
香を所望するのです。
ですから、本来お茶に招かれた際
所望に応えられるよう、
自分の香を香包みにいれておくのが
茶人の心得でした。
6月 1日(月)毒月と端午の節句
ご機嫌よろしゅうございます。今日から六月にはいりました。六月二十日は旧暦の端午の節句にあたります。この由来については諸説あります。
旧暦の五月には古代中国で「毒月」という異称があります。日に日に気温も上昇し、湿度も増すことから細菌も繁殖しやすくなり、疫病の蔓延する恐れなどがあるためで、「悪月」ともいわれるそうです。日本でもこの毒を封じるためか、五月五日の節句に野山に出て薬草を採集する「薬猟」(くすりがり)が行われていました。この日に収薬すると「百病を治すべし」と信じられていました。古くは朝廷でこの節句に「薬玉(くすだま)」をかけ、香袋を下げ邪気を払いました。また菖蒲もその薬効から悪疫を除去するとされ、家の軒に差したり、湯に入れて菖蒲湯にする風習が生まれました。ちなみにこの菖蒲は、皆さんよくご存知のあの綺麗な花の咲く菖蒲とは別の種類でサトイモ科の植物で香りのある植物です。
5月 29日(金)遠州公所縁の地を巡って
小室の領地へ
ご機嫌よろしゅうございます。
元和五年(1619)遠州公四十一歳の時
備中国から、近江国に転封となります。
この近江は遠州公の生まれ故郷であり、
浅井郡の小室の地が領地となります。
これから小堀家は七代宗友公まで、
代々小室藩主となります。
遠州公はこの小室の屋敷内に「転合庵」と「養保庵」
という茶屋を設けましたが、多忙な遠州公は
ここにはほとんど住まわず、二つの茶屋も
小室に帰国した際に楽しむために作られた
ようです。
二代宗慶公の時代に陣屋が建設されました。
小室藩の陣屋は、藩主が住まう館と、
それを囲むように家老や家臣団の屋敷が配置され、
藩の政治機構が整えられました。
二代目以降もほとんどこの小室の陣屋に藩主は
おらず、小室藩の実際の治世は家臣達が担っていました。
現在、かつて小室藩の陣屋が置かれていた付近には、
小室藩が祀ったとされる山王社(現日吉神社)や
稲荷社や弥勒堂などの祠堂、家老の和田宇仲の屋敷に
湧き出ていた泉から引かれているという宇仲池など
のみが残っています。
5月27日 (水)遠州流茶道の点法
「茶通箱(さつうばこ)」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は「茶通箱」をご紹介します。
当時大変貴重であったお茶が二種類手に入った時
そのお茶をお客様に両方点ててお出しする
お点法があります。
これが「茶通箱」です。
箱の中に二種類の茶入を入れ、一種ずつお点法をいたします。
元来茶通箱は封をして用いる為のものでもありました。
封の仕方や、その封をした茶通箱の飾りの次第などもあり複雑でした。
毒殺などがあり得た戦国時代には、中身の保証という
意味から、数寄屋坊主が茶入にお茶を入れ
封をして飾っておきました。
また二服目をいただく前に白湯を所望することもありました。
現在ではそのような扱いはすることはなく、
茶通箱の扱いを主たる目的として点法を稽古しています。
1つ目の茶入は必ず肩衝茶入を使用し、二種目の
茶入は瓢箪や耳付など肩衝ではない形の違うものを
使用します。
二種類の茶を点てること、茶通箱の扱いもあり
少々長いお点法です。
5月25日 (月) 五月雨(さみだれに)に…
星ひとつ 見つけたる夜のうれしさは
月にもまさる 五月雨のそら
ご機嫌よろしゅうございます。
そろそろ雨の多い季節がやってきます。
空を見上げても、ぐずついていることが多く、
なかなかすっきりとした夜空を見ることも
難しくなるのではないでしょうか。
先程の歌は遠州公が茶杓の銘につけた歌です。
節から切止へ降りていった左側に
小さな虫食いがあり、
遠州公はこの虫食いを星に見立てて
この歌銘をつけました。
曇りがちな梅雨の頃の夜空に、星を見つけた
ときの嬉しさ
茶杓の景色としてとても映える虫食いの竹を
見つけた喜びにかけてこの歌銘がつきました。
遠州公の茶杓は煤竹や、虫食いなどを景色にした
瀟洒なつくりのものが多く、見所が多いです。
5月22日(金) 遠州公所縁の地を巡って
女御御殿
ご機嫌よろしゅうございます。
元和四年(1618)遠州公40歳の折
秀忠の末娘・和子の入内が決まり、遠州公は
その女御御殿の作事奉行となります。
この作事は、何人かの奉行の内の一人として
一部分を割り当てられたのではなく、
最も格式の高い常御殿や居住所などの重要部分を
担当しており、遠州公の作事の技量が高く評価
されての任命といえます。
元和六年(1620)に和子は入内し、
後水尾天皇の女御となります。
寛永四年(1627)には、幕府の政策に耐えかねた
後水尾天皇が三十二歳で譲位を決意、寛永六年には
譲位されます。
遠州公は天皇の譲位後の住まいとなる仙洞御所の作事と
天皇譲位後東福門院となった和子の女院御所も
奉行しています。
またこの御所は建物が寛永七年に完成した後も
庭は未完成で、この作庭に遠州公が任命され、
寛永十年から十三年まで三年を費やしました。
この時期遠州公は二条城の二の丸作事、水口城
伊庭の御茶屋など、毎月作事奉行を仰せつかり
四ヶ所も兼務するなど、多忙をきわめます
5月 20日(水)遠州流茶道の点法
両名物(りょうめいぶつ)
ご機嫌よろしゅうございます。
濃茶で使用する茶入には名物とよばれる
ものがあります。
丸壺や茄子、文琳等の 名物茶入は盆にのせて飾り
お点法でも盆にのせて使用しますが、
肩衝など背丈のあるものや、大振りのものは
点法の時は盆にのせたままでは不安定なため、
盆にのせずに扱います。
その際は初入りでは、盆にのせた状態で飾っておき、
後入りで濃茶の点法の際に盆から外し点法します。
そして茶碗も名物並の道具を使う場合
行われるのが、この両名物という点法です。
茶碗に使い袱紗を折って入れ、「へだて」とします。
その上に茶入をのせて、この状態で
棚の上に飾り付けお点法を始めます。
この点法は棚に茶碗と茶入を飾りつけるため
小間では台目、広間では棚を使用します。
5月 18日 (月) 都忘れ
ご機嫌よろしゅうございます。
五月になり、草木も穏やかな季節に
可愛らしい花を次々と咲かせてくれます。
茶の湯の花も風炉の季節には椿から草花へ
その主役をうつします。
春から初夏にかけて、濃紫・紅・白色の小さな花を
咲かせる「都忘れ」も、風炉の季節を彩る茶花の一つです。
キク科の可愛らしい小さな花で
江戸時代から茶花、庭の下草として栽培され、
様々な園芸品種が作られてきました。
しかしこの「都忘れ」
なんだか切ない名前に感じられませんか?
この名は、承久の乱後、佐渡に流された
順徳天皇(1197~1242)が、この花を見て、
いかにして 契りおきけん 白菊を
都忘れと 名付くるも憂し
と詠んだことに由来すると言われています。
小さな菊を御所の周辺に植え、愛でていた順徳天皇。
特に父・後鳥羽上皇が白菊を好んだといわれ、
配流の島で、父帝が愛した白菊に似た花を「都忘れ」
と名付けて愛着することを、いかなる因果の巡り合わせ
であろうと嘆いています。
実際天皇がご覧になったのは、今日私たちが呼ぶ「都忘れ」
とは、実は異なった花だとも言われていますが
よく似た小さく可憐な花であったようです。
在島二十一年、歌道と仏道の中に歳月を過ごし
四十六歳の若さでお亡くなりになります。
都を想う順徳天皇のお心がこの小さな花に込められています。
5月 15日(金)遠州公所縁の地を巡って
大坂天満屋敷の拝領
ご機嫌よろしゅうございます。
元和三年(1617)遠州公三十九歳の時、
幕府から大阪の天満に屋敷を与えられます。
これは同年命じられた
伏見城本丸及び書院の作事奉行
また河内国の奉行の兼務により、
伏見の六地蔵からでは不便なことからの
幕府の配慮からでした。
翌年には女御御殿作事奉行にも任命され、
また後に大坂城作事にたずさわることにもなり
この大坂の屋敷は重要な拠点となります。
詳細はわかっていませんが、
ほぼ正方形の形をした四千坪の敷地に
茶室も作られていたようです。
この遠州公の屋敷のあった天満木幡町は
もともと源融がこの地に伊勢神宮の分祀を祀る
神明社を作ったことが由来の地で、
大阪三郷天満組に属していました。
江戸時代、大坂は幕府から派遣された大坂奉行
の支配のもと、北・南・天満の三組に分けられ、
大阪三郷と呼ばれていました。この三郷では、
ある程度の自治が認められていたといいます。
この木幡町の西の一角に遠州公の邸宅がありました。
5月 13日 (水)遠州流茶道の点法
炭点法の道具
ご機嫌よろしゅうございます。
風炉の設えになり、炭点法に使用する
火箸・灰匙を桑柄からかねの平打ちへ
香合も焼き物から塗物へ
他の道具も小ぶりなものにかえ、使用します。
その中で遠州流茶道で特徴的な
小羽と枝炭についてご紹介します。
小羽は一つ羽ともいい、灰器に乗せて持ち出す
小さい羽の箒で、
風炉に灰を蒔いた際、尉(じょう)とよばれる
白い灰が飛ぶので、五徳の爪と前瓦を
清めるために考案されたものです。
白鳥の羽を青と黄に染めたものもあり、
青を夏、黄色を秋に用いたりします。
また、火移りを良くし、装飾的な役割も
果たす枝炭は、他流では白く塗ったものを
使用しますが、遠州流茶道ではそれは用いません。
この白く塗った枝炭は古田織部が考案した
と言われていますが、遠州公は作為的に
色を塗ることを好まず、自然に白っぽく
焼けた炭を枝炭に用いたと言われています。