10月 7日(水) 遠州流茶道の点法
「盆点について」
ご機嫌よろしゅうございます。
今週から盆点の点法と茶入ついてご紹介します。
遠州流茶道の盆点は、
丸壺・文琳・茄子・鶴首などの茶入を用い、
それぞれに大名物と中興名物の扱いの二種類があります。
また方盆と丸盆の扱いにより、清め方の違いがあります。
名物で盆が添っていても肩衝茶入は盆にのせて
の点法はしません。
肩衝は盆に載せると不安定なため
初入、台目棚などに飾り付けの際は仕覆に入れたまま盆にのせ、
点法の際には盆を外して扱うか、両名物の点法で、
予め茶碗に仕込んで点法します。
この点法については以前ご紹介しました。
基本的に名物の茶入は常に両手扱いです。
また茶道点(さどうだて)といわれる、
左手を、茶入を持った右手に添える扱いをします。
10月 5日(月) 藤堂高虎(とうどうたかとら)
ご機嫌よろしゅうございます。
10月 5日 は、藤堂高虎の命日です。
遠州公の義理の父であることは皆様よくご存知の
ことと思います。
高虎は遠州公の才をいち早く見抜き、
養女を迎えて遠州公に嫁がせ、縁戚関係を結びました。
遠州公の父・新介と同じく、浅井氏の没後は、
豊臣秀長に従い、その才覚から後に家康にも
重用されました。
その信頼ぶりは家康の臨終の際に呼ばれ、
家康亡き後、万が一のことがあれば、戦陣の一番手を
高虎に任せよ。と遺言したことからもわかります。
また家康の念願であった、孫の和子入内も、
高虎の働きによって公武の話し合いが進められ
ついに実現しました。
この高虎が実現させた入内のために、
遠州公も後に作事奉行として
大いに活躍することとなるわけです。
寛永七年(1630)十月五日、七十五歳で亡くなります。
10月2日(金)遠州公所縁の地を巡って
「伊庭(いば)茶屋屋敷」
ご機嫌よろしゅうございます。
遠州公は水口城の他、現在の滋賀県東近江市伊庭町に
伊庭茶屋を作っています。
関ヶ原の戦いの後、慶長8年(1603)江戸幕府が開かれます。
依然として豊臣方の力が残存していたため、
将軍が江戸から上洛する際には
堅固な御茶屋風の宿泊所・護衛上の濠や土塁をめぐらした
城郭風の宿館が必要でした。
遠州公は命を受け、家光上洛の宿として
「伊庭御殿」を造営しました。
近年この地は現在「御殿地」と呼ばれていますが、
近くには民家もなく鬱蒼とした森になっていて
滅多に人が近づかない場所でした。
しかし、調査が進み「伊庭御茶屋御指図」(中井家所蔵)
と現況地形の一致から遠州公作と証明されました。
伊庭御殿は台所施設が広く取られている等の特徴があり、
将軍の休憩施設としての特徴を備えていました。
また他の茶屋のつくりは方形を基調としていますが
伊庭御殿は横に細長い不定形である点が特徴的です。
家光より後は、将軍上洛の必要がなくなったため、
御茶屋御殿は廃止されていきます。
現在、遺構としては、石垣の一部と井戸跡を
見ることができます。