6月 29日 (月) 夏越(なごし)の祓
風そよぐ ならの小川の夕暮れは
みそぎぞ夏の しるしなりける
新勅撰集 藤原家隆
ご機嫌よろしゅうございます。
明日は6月30日 「夏越の祓」が行われます。
昔は一年を二つに分けて考えられていました。
大晦日が新年を迎えるための大切な日であるのと
同様に六月晦日も、神に一年の前半の無事を感謝し、
後半年の無事を祈るための物忌みの日、
祓いの日と考えられていました。
その神事の一つ、茅の輪くぐりについては
昨年ご紹介しましたが、
もうひとつ知られているのは
川原などで水により身を清め、罪や穢れを
払い落とすものです。
旧暦でいえばすでに秋の気配も濃くなり
涼しい風の吹いてくる晩夏の夕暮れの神事。
冒頭の歌は家隆が、上賀茂神社での夏越の祓の
情景を歌ったものです。
風が楢の葉に吹きそよぐ、このならの小川の
夕暮れは、みそぎの行事だけが夏であることの
しるしなのだなあ。
夏の終わりを感じる夕暮れの情感を感じられます。
現代では梅雨時で、夏もこれからというところ
季節感にずれはありますが、
明日は一年の半年が無事に過ごせたことを
感謝し、先の半年について想いを巡らせてはいかがでしょうか ?
6月26日(金)遠州公所縁の地を巡って
「道の記 」(2)
ご機嫌 よろしゅうございます。
今日は道の記の始まりの内容をご紹介します。
道の記は9月22日
午時許(うまのときばかり)、今で言うと
午後12時から2時にかけて
江戸駿河台の屋敷を出発するところから始まります。
午後4時から6時頃品川を通過
午後6時から8時に神奈川の宿に到着
駿河台から品川まで約9キロ
品川から神奈川まで約20キロ
計29キロを約六時間かけて歩いています。
この日は鶏の鳴き声を聞くまで夜を明かし、
日数経ば 末は都や 近からむ
別物うき 昨日今日かな
と、江戸をたち、別れを惜しみつつ
懐かしい京都へ向かう喜びと不安
これから始まる旅への想いを歌にしています。
6月 24日(水)遠州流茶道の点法
「名水点(めいすいだて)」
ご機嫌よろしゅうございます。
梅雨があけるといよいよ夏本番。
暑さも厳しくなってきますね。
今日は通常のお稽古としては
あまり致しませんが、
お招きを受けた時に役立つ心得として
知っておきたい、「名水点」についてご紹介します。
いわゆる名水と呼ばれる水を用意した際
名水点というお点法でお茶をお点することがあります。
おいしいお茶を点てるためには、
おいしい水が必要。
昔から名水と名高い水が茶の湯のために求められ、
使われてきました。
京都では盆地という地形故に地下水も豊富で
醒ヶ井など有名な名水がいくつも存在しました。
大体夏に行われることが多いお点法で
その際には水指に葉蓋をして、名水点ということが
最初からわかるようにします。
お客様は心得として、お茶をいただいた後
「今一服如何ですか?」
と尋ねられたら
「お茶は十分頂戴しました。
お白湯をお願い致します。」
と、お白湯を所望します。
せっかくご用意いただいた名水ですので
そちらをいただくことが、お客様の礼儀というわけです。
6月 22日(月)夏至
夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを
雲のいづこに月やどるらむ
古今集 清原深養父(ふかやぶ)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は二十四節気の夏至にあたります。
一年で最も昼が長い一日。
つまり、夜が短い一日でもあります。
冬至と比較すると、昼間の時間差は4時間以上
にもなります。
「秋の夜長」に対して「夏の短夜」
とも表される夏の夜ですが、
その「短夜」を美しく歌ったのが
この歌です。
夏の夜は短くて、まだ宵と思っているうちに
明け方になってしまったけれど、
これでは月は一体雲のどのあたりに
宿をとるのだろう
歌の前に「月のおもしろかりける夜、暁がたによめる」
という詞書があります。
短夜にあっという間に見えなくなってしまった、美しい月
その月の名残を惜しんで深養父が詠んだ歌です。
深養父は平安時代中期の歌人で曾孫は清少納言です。
秋の月と比べて、あまり意識されることも
ありませんが、こんな夏らしい趣のある月
を愛でるのもよいものですね。
6月 19日(金)遠州公所縁の地を巡って
「道の記」その1
ご機嫌よろしゅうございます。
元和七年(1621)四十三歳の折、
江戸から京都への道中を記した旅日記が残っています。
まだ人々が自由に旅を楽しむことができなかった時代。
遠州公は公務のため江戸をたち、京都へ戻ります。
9月22日に江戸を出発、
10月4日に京都へ到着するまでの12泊13日の
様子を、和歌や詩を交え書き記しています。
道のりにして500キロ
東京から京都まで、新幹線に乗れば3時間かからない
現在に比べると、時間ははるかにかかります。
大変なことも多かったことと思いますが
四季の移り変わりを直接に感じ、
道みちの様子を眺めながら、そして知己との交流
を深めながらゆっくりと進む当時の旅は、
とても楽しそうです。
この旅日記は各大名から書院飾りとして求められた
りしたようで、二代目大善宗慶、権十郎蓬雪、
三男十左衛門正貴などが、父である遠州公の旅日記を
書写しています。
来週はその一部を紹介します。
6月17日(水)遠州流茶道の点法
「茶碗披き(ちゃわんびらき)」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は茶碗披きについてご紹介致します。
亭主が拝領した茶碗や名物茶碗を手に入れ
初めてお客様に茶碗をお披露目する際に
されるお点法がこの「茶碗披き」です。
通常の点法では、茶碗は他の道具に比べ
拝見にだす機会が少ないかと思います。
このお点法での主役は茶碗ですので、
通常とは逆に、席入りの時から予め茶碗を飾り付けて
茶入を持ち出して点法を始めます。
また通常の濃茶の点法の最中であっても、
お客様から所望があれば、途中から
「茶碗披き」の仕舞いにしていき、
自分で茶碗を清め拝見に出すことが出来ます。
その場合は水屋に下がった際に、
仕舞い込み茶碗を用意し、茶道口に置きます。
風炉の場合は、席入り前の柄杓の飾り付けも特殊で
華やかな印象のお点法です。
6月 15日(月)おたくさ
ご機嫌よろしゅうございます。
梅雨時、雨にうたれて
一層色鮮やかに映える紫陽花が見事です。
この紫陽花別名を「おたくさ」と
呼びます。和菓子屋さんでも
紫陽花の和菓子に「おたくさ」という銘が
つけられたものをご覧になったことも
あるのではないでしょうか?
この名前、実はシーボルトが関係しています。
出島のオランダ商館医であったシーボルト
この地でお滝さんという女性と出会い、
いねという娘をもうけ幸せな日々を送ります。
そして彼は日本の紫陽花を大変気に入っていました。
しかし、スパイ容疑をかけられ、国外追放の身となって
最愛の人と引き裂かれてしまいます。
彼は、大好きなあじさいに最愛の「小滝さん」の名から
「オタクサ」と学名をつけ、ヨーロッパに紹介しました。
この「おたくさ」の名には、シーボルト最愛の
女性への深い想いがこめられていたのでした。
ちなみにお滝とシーボルトの間に生まれた
いねさんは、大変な苦労の末医学の道に進み
日本初の女医で産科医となったそうです。
6月 12日(金)遠州公所縁の地を巡って
「大坂城」
元和六年(1620) 遠州公42歳
大坂の陣で焼失した大坂城の再建に関わります。
この時は城の周縁部の櫓や門の修繕の奉行をつとめました。
寛永三年(1626)には天守本丸作事奉行となっています。
さて2014年、2015年は
大坂冬の陣(1614年)・大坂夏の陣(1615年)
から数えて400年を迎える節目の年となります。
そこで2014年・2015年は「大坂の陣400年」と位置づけ、
大坂城を拠点として大阪全域で「大坂の陣」
の史実に触れるイベントを開催しています。
昨年には大阪城公園内の「一番櫓」「千貫櫓」「多聞櫓」「金蔵」
の4箇所が公開となりました。
この特別公開された櫓は、大坂の陣で焼失後、
徳川幕府の手によって建造されたもので
このうち「千貫櫓」は遠州公が大坂城作事の際
担当した櫓と言われています。
大坂城内に残る建物の中では、西の丸内にある
乾櫓と並んで最も古い建造物です。
公開期間中、櫓の成り立ちや役割、機能を解説する展示を
中心に、大坂城築城普請に大きく貢献した人物、
徳川秀忠・藤堂高虎、それに遠州公の紹介も詳しくされました。
6月 10日(水) 遠州流茶道の点法
「天籟(てんらい)」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は立礼卓「天籟」をご紹介します。
「天籟」は永遠、無限をコンセプトに
宗実お家元がお好みになった立礼卓です。
天籟の意味は、
自然の調和などを意味する言葉です。
その名の通り、漆黒に銀の輝きが散りばめられた
美しい卓です。
天板は無限を表す「∞」の形になっており、
道具組によって、赤と黒の二種類の天板に
組み替えることができます。
前面に施された紋は七宝とenshuの文字を
巧みに組み込んだデザインとなっていて
曲線と直線のラインが生かされた
モダンなつくりの卓です。
遠州流茶道ではご先代の佳扇卓などもありますが、
この「天籟」は普通の自宅でも使えるよう、
コンパクトにつくられています。
6月 8日 (月) 太田道灌と蓑傘
ご機嫌よろしゅうございます。
梅雨の時期の外出に傘は欠かせません。
そして昔は雨の時、蓑を使用していました。
今日はこの蓑にまつわる太田道灌のお話をご紹介します。
太田道灌は江戸城を造ったことで有名です。
築城の名人で、また歌人としても知られた武将でした。
さて、神田川の桜並木に「面影橋」という橋が架かっており
この面影橋に「山吹の里」という石碑があります。
ある日、鷹狩に出かけた若き道灌が、
にわか雨に遭遇し、村のあばら家で蓑を借りようとしました。
しかし家から出てきた少女は無言のまま、
山吹の一枝を道灌に差し出します。
その意味が分からない道灌は怒って
その場を立ち去りましたが
あとで家臣から
七重八重 花は咲けども山吹の
実の一つだになきぞ悲しき
という後拾遺集の歌に寄せて、少女が
蓑のひとつさえ持てないかなしさを
山吹の枝に託したのだと聞かされます。
自分の無学を恥じた道灌は
それ以降歌道に精進したといわれています。