恵比寿講(えびすこう

2014-10-20 UP

10月 20日 恵比寿講(えびすこう)

ご機嫌よろしゅうございます。

今日は10月20日。
「恵比寿講」と呼ばれる行事が行われます。

ふっくらとしたお顔に満面の笑み
七福神の一人に数えられる恵比寿様
皆さんもよく耳にするお名前ではないかと
おもいます。

恵比寿様は、神無月で日本国中の神様が出雲へと
出払ってしまった留守を守るとされ
その恵比寿様に商売繁盛を願う行事です。

鯛を抱えて釣竿を持った姿の恵比寿様は
もともと海の向こうからやってきた漁業の神様。
次第に市場の神、商業の神として崇められ
商家ではこの日に恵比寿様の掛け軸をかけ
尾頭つきの鯛や現金などを供えるのだとか。

さて日本橋宝田恵比寿神社では、江戸時代から始まった
「べったら市」が有名です。
べったら漬けは、徳川慶喜公も
好んでよく食べたそうで、東京の名物にもなりました。

遠州公の国焼指導

2014-10-19 UP

10月 19日 遠州公の国焼指導

ご機嫌よろしゅうございます。
日曜日になりました。
軍師官兵衛に関連して
今日は遠州公の国焼き指導のお話を。

秀吉が行った朝鮮の役で茶の湯を愛好していたため、、多くの武将が
朝鮮に上陸し帰国の際に、現地の陶工を日本につれ、それぞれ自分の領地で釜を作り、作陶を始めます。
これが御庭焼と称されるものですが、
なかなか茶の湯の心にかなったものが出来ません。
そこで注目されたのが遠州公です。
当時既に茶の湯の第一人者として活躍していた
遠州公の伏見奉行屋敷に、自国の領地で御庭焼と
して始めた陶窯で働くナンバーワン陶工を
派遣し指導を受けました。

遠州公は指導の要請があると、
まず「切形」と呼ばれる型紙を送ります。
陶工はその型紙通りに焼いたものを持参し
京都伏見まで向かうのでした。

そういった遠州公の好みや指導を受けた窯を
後に遠州七窯などと称すようになります。

遠州七窯についてはまた後日。

遠州公の国焼指導

2014-10-19 UP

10月 19日 遠州公の国焼指導

ご機嫌よろしゅうございます。
 日曜日になりました。
 軍師官兵衛に関連して
今日は遠州公の国焼き指導のお話を。

 秀吉が行った朝鮮の役で茶の湯を愛好していたため、、多くの武将が
朝鮮に上陸し帰国の際に、現地の陶工を日本につれ、それぞれ自分の領地で釜を作り、作陶を始めます。
これが御庭焼と称されるものですが、
簡単には茶の湯の心にかなったものが出来ません。
そこでそれらの陶工の指導にあたったのが遠州公です。
 

 遠州公は指導の要請があると、
まず「切形」と呼ばれる型紙を送ります。
 陶工はその型紙通りに焼いたものを持参し
京都伏見まで向かうのでした。黒田家の御用窯となった高取焼は
その代表的なもので、のちに遠州高取と呼ばれています。

そういった遠州公の好みや指導を受けた窯は、
信楽・伊賀・丹波・膳所・志戸呂・上野・薩摩など数多く
後に遠州七窯などと称すようになります。

 遠州七窯についてはまた後日。

遠州流全国大会

2014-10-18 UP

10月 18日  遠州流全国大会

ご機嫌よろしゅうございます。

今日18日から20日まで
広島・呉・広の三支部担当による
遠州流全国大会が広島にて開催されます。

この大会で、四十八回目を迎える全国大会
記念すべき第一回は、昭和40年6月
青森支部で開催された東北大会です。

その後万国博覧会などの理由で開催されない年が
2年ほどあった年を除き、2014年現在に至るまで
毎年、各地の支部でこの全国大会は行われてきました。

今回の大会の観光は安芸の宮島を参拝する予定です。
お家元とご一緒に名所を移動し
お近くでお話しできる貴重な機会で、
お茶会とはまたちがった楽しさがあります。

 若き遠州公の話

2014-10-17 UP

10月 17日 若き遠州公の話

ご機嫌よろしゅうございます。

本日は遠州公が茶の湯を始めたころの
お話を。

十五歳で大徳寺春屋宗園禅師に参行し、
修行を積みながら
古田織部のもとで茶の湯を本格的に学んで行きます。

遠州公が十八歳の時に
「洞水門(どうすいもん)」を考案しました。
これは現在水琴窟と呼ばれています。

茶室に入る前には手と口を
蹲(つくばい)で清めます。

当時の蹲は水はけが悪く、
何度か使用すると、周りに水が溜まってしまい
大変使いにくいものでした。

これを若干十八歳の遠州公が
この蹲の地下に瓶を仕込み、
水滴が瓶の中に落ちる時に、ポーンという
美しい反響音がする仕組みを考案し
水はけの問題も解消しました。

遠州公の茶の湯の師であった
古田織部も遠州公の才に大変驚いたと
言われています。

四世 宗瑞公

2014-10-16 UP

10月 16日  四世 宗瑞公

今日は小堀家四世の宗瑞公ご命日です。

貞享二年(1685)に小堀家の領主である
近江国小室で生まれました。

元禄七年(1694)正月二日、父である三世
宗実公の他界により、10歳の若さで跡目を継ぎ、
遺領を継ぐこととなります。

その後の
元禄十三年(1700)16歳となって元服し、
翌年結婚。江戸城御詰衆をつとめます。
宝永元年(1704)には将軍の御小姓として居候し
将軍の御前で「論語」の講釈をするなど、元服以前
より大変利発でした。

宝永六年、25歳で従五位下遠江守・諸大夫
に任じられます。

茶法は、父・三世宗実公が亡くなってからは
小堀家茶頭の桜山一有や大叔父小堀土佐守政武
から学びます。

正徳三年(1713)十月十六日
29歳の若さで江戸で亡くなります。

小堀家歴代の中で最も若くお亡くなりになった方です。

神嘗祭(かんなめさい)

2014-10-15 UP

10月 15日 神嘗祭(かんなめさい)

ご機嫌よろしゅうございます。

皇室の祖先神である天照大神を祀っている
三重県の伊勢神宮では、今日から17日まで
「神嘗祭」が行われます。

これは「神宮神田」と呼ばれる場所で作られた新米と
新酒を献上し、今年最初の収穫を真っ先に
召し上がっていただくという神事です。

お米は私たち日本人にとって命の源であり、
そのお米が豊作になることを神様にお祈りします。

この「神嘗祭」が神宮の一年で最も重要な祭祀に当たり
この祭りの際には神宮で使用する祭具や装束など
新しいものに一新されるため、
「神宮の正月」とも呼ばれています。

顕彰会講演会

2014-10-13 UP

10月 13日 顕彰会講演会

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は飯田橋のしごとセンターにて

「遠州の憧れた定家の世界」
をテーマに講演会が行われます。

遠州公と定家については、既にこの
メールマガジンで何度か触れてまいりましたが
定家様の第一人者であった遠州公と定家との
関係を、國學院大学 文学部教授の
豊島 秀範 氏 が、詳しくお話ししてくださいます。

月刊「遠州」にて「狭衣物語」を連載されていた
先生で、ご専門は中古、中世文学で特に和歌や日記
を研究されてます。

明日はその講演会の模様をお伝えする予定です。

講演会参加ご希望の方は、
顕彰会までご連絡ください。

博多文琳(はかたぶんりん)

2014-10-12 UP

10月 12日 博多文琳(はかたぶんりん)

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は日曜日。
官兵衛の時代のお話を。

黒田家にとって重要な茶入に
「博多文琳」があります。

もともと博多の豪商・神屋家に伝わる重宝で、
何度も求め続けられた秀吉にも、
黒田如水(官兵衛)、長政にも
ついに召し上げられませんでした。

しかし時代が移り、神屋宗堪の代になった寛永二年
(1624)2代藩主だった黒田忠之に献上。
金二千両と五百石の土地を下賜されました。
(これを固辞したという説もあります。)

この「博多文琳」はその後黒田家当主の代替わりのとき
しか見られないもので、勝手に見せると黒田家に
災いが起こるとされていました。

近代の数寄者であった高橋箒庵が「大正名器鑑」
を編集したときも拝見を許されなかったそうです。

遠州公の愛した茶入

2014-10-11 UP

10月11日遠州公の愛した茶入
「吹上文琳(ふきあげぶんりん)」

ご機嫌よろしゅうございます。
本日は遠州蔵帳所載の茶入「吹上文琳」を
ご紹介します。

遠州公がこの茶入の美しい景色にちなんで

秋風の吹上に立てる白菊は
花かあらぬか波のよするか     古今集

の和歌から命銘したとされています。
蓋箱書付や、仕覆箱書付、外箱はともに
松平不昧公が書付しています。

これは遠州公所持の後、姫路酒井宗雅公に伝わり、
寛政元年(1789)四月二十八日、参勤交代の途中に
駿河蒲原という場所で休んでいたおり、
不昧公と出会い、この茶入を贈与したいきさつが
あります。「雲州蔵帳」にも所載されており、
現在は五島美術館に収蔵されています。