5月31日 遠州公の愛した茶入
「埜中(のなか)」
ご機嫌よろしゅうございます。
本日は遠州蔵帳所載の茶入「埜中」を
御紹介します。
中国から渡ってきた茶入で
おもはくは埜中にとては
植えおかじ 昔は人の軒のたちばな
慈鎮和尚
の歌意にちなんだものと思われます。
遠州公の茶会記には特に記載が残っていません。
松花堂昭乗との関係があるようで
挽家の「埜中」の字は松花堂昭乗によるもので、
茶入に添えられているお盆の箱書も松花堂昭乗の筆です。
さらに「遠州松花堂贈答の文」の一軸が添えられています。
5月30日 遠州好 「七宝文(しっぽうもん)」
ご機嫌よろしゅうございます。
本日は遠州公の好んだ「七宝文」をご紹介します。
遠州流の、様々なものにこの文様が入っておりますので
皆様にもお馴染みのものと思います。
正しくは「花輪違い」と呼ばれます。
以前は「鶴の丸と丸に卍」が小堀家の紋でしたが
遠州公によって小堀家の定紋と定められたもので、
多くの茶道具にあしらわれています。
七宝文自体を形どって作られているものは唯一
「七宝透蓋置(しっぽうすかしふたおき)」
が好まれています。
またオランダのデルフトへ注文したと思われる
箱書きは「をらむだ筒茶碗」にもこの文様を上部にめぐらせて
いて、今の時代にみてもモダンな茶碗です。
5月 29日 五月晴(さつきばれ)
ご機嫌よろしゅうございます。
気候も穏やかな新緑の季節、
爽やかに晴れ渡ったこの空のことを
「五月晴」と表現します。
しかしこの「五月晴(さつきばれ)」という言葉
本来は旧暦の5月を指しました。
梅雨の間の晴れの日に使われていましたが、
現在では五月の晴天という意味でも使われるようになったのです。
三寒四温同様、
誤用が一般化して定着した一例といえます。
5月28日 虎が雨
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は5月28日
この日は必ず雨が降るという伝承があります。
建久四年(1993)
仇討ちで有名な曽我兄弟が父の仇討ちに敗れて討ち死にし、
兄祐成の愛人、虎御前が悲しみに涙した日なのだそうです。
その後虎御前は兄弟を弔うため出家します。
旧暦では梅雨に当たるため、
江戸時代には俳句の季語でした。
また神奈川県小田原市城前寺では
仇討ちが行われたこの日
「曽我の傘焼き」と 呼ばれるお祭りがあります。
富士の裾野で傘を焼いて松明とした故事にちなむ祭りで
周辺をまわって古い傘を集め、火を放って供養します。
さて今年は虎御前の雨が降りますでしょうか?
5月 27日 目に青葉 山ほととぎす 初鰹(はつがつお)
目に青葉
山ほととぎす
初鰹
ご機嫌よろしゅうございます。
江戸時代の俳人・山口素堂の
季節感をよく表した句ですが
正しくは「目には青葉…」なのだそうです。
初夏はのぼり鰹(かつお)のシーズン。
南の暖かい海で冬を過ごした鰹が、4~5月にかけて
黒潮に乗り太平洋沿岸を北上します。
「女房を質に入れても」といわれた初鰹ですが
鎌倉で水揚げされた「相州の初鰹」は特に珍重され、
江戸まで早舟で届けたといわれます。
文化九年(1812)には魚河岸に入った17本の鰹のうち、
6本が将軍家へ献上されました。
そして残りを高級料理屋の八百膳と魚屋が
そのうち一本を三代目中村歌右衛門が3両で買い
大部屋の役者に振舞ったという記録が残っており、
こぞって法外な高値で取引される
初鰹は庶民の話題の的となりました。
1両が現在の30万円ぐらい
これは当時の最下級の武士の一年分ほどの給料に
相当するようです。
5月26日 松浦鎮信(まつうらしげのぶ(ちんしん))
ご機嫌よろしゅうございます。
今日5月26日は松浦鎮信の命日です。
元和八年(1622)ー元禄十六年(1703)
肥前平戸藩主で、ちょうどこの頃に島原の乱(島原一揆)
が起こります。そのため、鎮信は長崎奉行所を守備、
また異国船の入港が長崎に限られ、その警戒にあたります。
茶は片桐石州の家老・藤林宗源に学び、
石州流鎮信(ちんしん)派を開きました。
屋敷は品川にあり、
赤穂浪士の討ち入りで有名な吉良上野介のお隣さんだったといわれ
提灯を掲げて討ち入りを助けたという話も残っています。
また鎮信の茶杓に「討ち入り」という銘のものもあります
遠州公はこの鎮信の祖父に当たる同名の鎮信と親交があり
その屋敷の庭は遠州作とも伝わり、
今も中学校の校庭に、その庭が少しだけ残っています。
5月25日 秀吉の初茶会
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は日曜日
官兵衛の時代のお話を。
官兵衛が有岡城に幽閉されてしまいました。
官兵衛最大の苦難の時です。
この少し前、
三木城の北東の平井山の本陣に入り
三木城の監視に当たっていた秀吉は
天正六年の10月15日に、
堺の津田宗及らを招いて茶会を開きます。
これが秀吉が信長に公許された
最初の茶会のようです。
この時、信長から拝領した乙御前の釜や
月の絵の掛物を使っています。
会席には生の白鳥の汁と飯。
播州の内池に下りてきた白鳥をつかまえたもので、
生きた白鳥を〆て汁に供するのは、
格式の高い料理です。
歴史に詳しい方いらっしゃいましたら
是非このあたりのお話でコメントただけましたら幸いです.
5月 24日 遠州公の愛した茶入
「玉柏(たまがしわ)」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州蔵帳所載の茶入
「玉柏(たまかしわ)」を
ご紹介します。
「玉柏」は
奈良屋弥兵衛が、摂津国の難波の浦で
見出したことから、遠州公が千載和歌集の恋歌
ちなんで命銘されました。
難波江の藻にうづもるる玉柏
あらわれてだに人をこはばや
難波江の藻に埋もれている石が水面にあらわれるように、
せめて思いをあらわして人を恋いたいなあ。
玉がしわは玉堅磐、海中の岩のことで
井伊直弼の『閑窓茶話』には「玉柏といふ茶入は、
黒きなだれの薬どまりに大なる石はぜあり、
因て遠州玉柏と名づけらる、玉柏は石の異名なり」とあります。
遠州公の茶会では
寛永十九年(1642)を最初に三回ほど使用されています
5月23日 遠州公時代の三河の名所
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は伊勢物語に出てきた三河の八つ橋について
遠州公が歌った和歌をご紹介します。
遠州公が元和七年(1622)43歳のときに
江戸から京都へ上った際の日記があります。
八つ橋というところに着いた。
燕子花の名所ということなので
さぞかしたくさん咲いているのだろうと思って
いたけれども、全く咲いていなかった。
やつはしに はるばるときてみかはなる
花には事をかきつばたかな
と言ったらお供のものが大変おもしろがった
とかかれています。
「花に事欠く」と「かきつばた」をかけたのですね。
平安時代、燕子花の名所であった三河は
遠州公の時代には名所がどこであったか
その場所もわからなくなっていたようです。
5月 22日 江戸っ子
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は江戸っ子についてお話をしたいと思います。
江戸に生まれ、江戸に暮らす
喧嘩っ早く、涙もろい、粋でいなせな性格
そんな人を江戸っ子と呼びました。
江戸っ子は五月の鯉の吹き流し
五月に空を泳ぐ鯉のぼり
そのお腹には初夏の爽やかな風が吹き抜けていきます。
口先ばかり 腸(はらわた)はなし
と続くこの言葉は
江戸っ子の気質を表す句として知られています。
江戸っ子は言葉づかいは荒いが,
腹に何もなく気持ちはさっぱりしているということ。
また,江戸っ子は口先ばかりで内容がない
という意味にも使われるそうです。
小説では夏目漱石の「坊ちゃん」
映画では「男はついらいよ」「一心太郎」などが
江戸っ子の主人公として描かれています。