片桐石州

2014-11-20 UP

11月 20日 片桐石州

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は片桐石州についてお話しします。

天正十一年(1583)生まれ。賤ヶ岳の七本槍の
一人として有名な片桐且元の弟だった貞隆の子
として生まれます。
江戸時代に京都知恩院などの普請奉行を務める間、
京で遠州公や宗旦、金森宗和、松花堂などとの交流
を深め、茶の湯の実力が磨かれていったようです。

若き石州はそれら大先達にその器量を試される
時期であったようで、遠州公や宗旦の茶会に参会し、
石州の茶の師であった、桑山左近の教え以上の話を
ふられたりしていたという話が残っています。
(「松屋会記」「元伯宗旦文書」)   →要確認

後に四代将軍家綱の所望で、点茶の式を行い、
徳川家秘蔵の名物道具の鑑定をする御道具奉行になります。
「石州三百か条」は後の柳営茶道の規範にもなりました。

四代目の将軍茶道指南役ともなり、
遠州公の後継者的役割を果たしました。

延宝元年(1673)六十九歳で亡くなります。

茶壺の中

2014-11-19 UP

11月 19日  茶壺の中

ご機嫌よろしゅうございます。

十一月も中旬となり、挽きたての新しい抹茶が
各茶家でも楽しまれていることでしょう。
自分で石臼で挽いたお茶は、手間はかかりますが
その香りも色も格別です。

遠州公も、水屋常住の大きな石臼とは別に、
手元でちょっとお茶を頂きたい時に、少量
挽ける「小車」という銘のついたコンパクトな茶臼を
持って挽きたてのお茶を楽まれていたようです。

さてこの茶葉が詰められてくる白い袋は
なんという名称かご存知でしょうか?

八十八夜につまれたお茶は
濃茶にされるごく良質の葉茶を、
半袋(はんたい)と呼ばれる袋に、10匁(もんめ)(37.5g)ずつ
詰めていきます。
この半袋、半分の袋と書きますが、
これはもともと20匁が一つであったのですが
お茶が大変貴重で高価だった当時は、
20匁を求めるにはなかなか手が出ないので、
その半分の10匁を袋に詰めて、「半袋」
としたのだそうです。

戸川宗積先生

2014-11-18 UP

11月 18日 戸川宗積先生

ご機嫌よろしゅうございます。
今日はご先代紅心宗慶宗匠の御実弟
戸川宗積先生のご命日です。

道守り 其の身心を空となし
力つくして 今日ぞ散りゆく

ご先代が宗積先生の追悼の文で詠まれた歌です。

紅心宗匠の生死もわからない戦時中、勤めていた
仕事を辞して遠州流茶道の組織作りに力を注ぎました。
そして「茶道遠州会(現・遠州茶道連盟)」の下地を
完成させ、いつ紅心宗匠が戻られてもいいような
形まで作り上げたのです。

紅心宗匠がシベリア抑留から帰国し、昭和25年3月19日に、
音羽護国寺にて「宗慶」襲名披露の大茶会が終わった
夜の祝膳の時、紅心宗匠の御実弟・宗積先生はご両親、
ご姉弟に
「本日から兄弟の縁を切り、
己が命ある限り、遠州流茶道発展向上の
為に全力を尽くします」
と誓われます。
以後、その言葉通り、その身を砕くように
紅心宗匠を、そして遠州茶道宗家を
影となり日向となり支えてこられました。

大変面倒見がよく、修行中だった職方や道具屋さんなどに
よく食事をさせ、共に酒を飲み、そして親身に指導してくださった
と、宗積先生を知る方は、当時を懐かしそうに思い出して
お話しされます。

己の信念を貫き、また遠州流の発展のため、
全力を注がれた、先生のお人柄が偲ばれます。

心あてに折らばや折らむ 初霜のおきまどはせる白菊の花

2014-11-17 UP

11月 17日

心あてに折らばや折らむ
初霜のおきまどはせる白菊の花

古今集  大河内躬恒

ご機嫌よろしゅうございます。
東北から関東にかけては既に初霜の降りた地域も
あるのではと思います。

先ほどの和歌は百人一首にも選ばれている
大河内躬恒の歌です。

当て推量に折るならば折ろうか。
初霜が置いて、その白さのために見分けもつかなく
なっている白菊の花を。

初霜に紛れるばかりの白菊の美しさを詠んでいます。

先人は、寒暖の差によって熟し方の異なる茶の扱いや
炉・風炉の区切りを自然現象によって判断していました。

口切も行う日が予め決められたものではなく
霜が降ってからが良いとされていたのです。

木々が赤く染まり始める頃、
そしてはらはらと散り始める頃

その時々の自然の変化に応じて、
茶の湯も時が流れていきます。

遠州公と高取焼

2014-11-16 UP

11月 16日 遠州公と高取焼

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は先週に引き続き、
遠州公と高取焼についてのお話を
ご紹介します。

高取焼の茶入で有名なものの一つに
「横嶽」という銘の茶入があります。

御所持の茶入 一段見事に御座候
染川 秋の夜 いづれもこれには劣り申すべく候…
前廉の二つの御茶入は御割りすてなさるべく候…
(「伏見屋筆記 名物茶器図」)

黒田忠之公が遠州公に茶入を見せて、
命銘をお願いしました。
遠州公はこの茶入のでき上がりを賞讃し、
先週ご紹介した、二つの茶入「秋の夜」「染川」
よりも優れているとして、前の二つは割捨ててしまいなさい
とまで言っています。

そして九州の名勝横嶽にちなんで銘をつけました。

過去火災に遭い、付属物を消失し釉薬の色も多少変わって
しまいましたが、形はそのままに
現在熱海のMOA美術館に収蔵されています。

七五三

2014-11-15 UP

11月 15日 七五三

ご機嫌よろしゅうございます。

この時期、小さな可愛いお子さんが
お着物をきて、お家の方と手をつないで歩く
姿をよく見かけます。

慣れない着物に戸惑いながらも、一生懸命
歩く姿はとてもいじらしく可愛いものです。

今日は七五三。
「七歳までは神のうち」という言葉もあるように
かつては、乳幼児死亡率も高く、子供が七歳まで
成長することも厳しい時代でした。

そのため三歳、五歳、七歳と節目ごとに大人の
髪型や着付けに近づけていき、七歳をもって
人間の仲間入りを果たし、その御祝いをする
という意味が、この七五三には込められています。

現代では医療も進歩し、可愛い我が子の成長の
過程を祝う行事として全国に定着しました。

ここまで無事に育ってくれたことへの安堵と喜びが
街ですれ違う家族から伝わってきます。

おそらく椿

2014-11-14 UP

11月 14日  おそらく椿

ご機嫌よろしゅうございます。

京都伏見にある安産祈願で知られる
御香宮神社をご存じでしょうか?

ここには遠州公ゆかりの椿が植えられています。
「おそらく椿」と呼ばれるその花は
白と薄紅の混ざった淡い色をした花弁が
幾重にも重なり合い、丸く可愛らしい印象を受けます。

この椿は豊臣秀吉が伏見城築城の際、
各地から集めた茶花の一つと伝えられ
樹齢約400年の古木です。

遠州公が伏見奉行を務めていた折、
この御香宮を訪れました。

「各地で名木を見て来たが、
これほど見事なツバキは、おそらくないだろう」

とたたえた事から、以後
『おそらく椿』
と呼ばれるようになったのだそうです。

遠州公とワイン

2014-11-13 UP

11月 13日 遠州公とワイン

ご機嫌よろしゅうございます。
今日はワイン好きの方には待望の
ボジョレーヌーボー解禁日です。

フランス・ブルゴーニュ地方のボジョレー地区
で作られる新酒。
毎年11月の第3木曜日午前0時に販売が解禁されます。

その年収穫された葡萄で作る、若々しいワインは
そのフレッシュな味わいを楽しむため、
普通のワインとは異なり、
冷やして頂くと美味しいそうです。

さて、遠州公は会席の前に、徳利に葡萄酒を入れて
お出しするなど鎖国政策の敷かれていた
当時の日本としては大変珍しく
貴重だった葡萄酒を茶の湯に巧みに
取り入れていました。

これは遠州公が歴代の長崎奉行との深い交流
があり、葡萄酒を手に入れやすい環境に
あったことが一つの要因のようです。

また黒田藩主忠之公に葡萄酒を贈った際の
添え状も残っています。

(ふくべ)の炭斗

2014-11-11 UP

11月 12日 瓢(ふくべ)の炭斗

ご機嫌よろしゅうございます。

炉開きについては先週ご紹介しましたが、
炉開きの炭点法では、瓢(ふくべ)を
炭斗にしたものを使うことがあります。

瓢は夏にもお話しました通り、干瓢を
作る夕顔の実です。
秋の実りの頃にできるの瓢のもののうち、
すわりのよいものを選んで炭斗を作り、炭を入れます。
水分が多いことから、火に対する水の意味も
あり、炉開きの際に使われます。

遠州公の茶会記にも寛永三年の十月十五日
を初めに、瓢の炭斗が度々登場します。

本来はその都度新しいものを作るのですが
近年では肉の部分が薄く、なかなかふさわしいもの
ができません。
そこでご先代の宗慶宗匠は、瓢に漢詩や和歌を
書き付け、後々にも使えるよう工夫をなされました。
無表情だった瓢の炭斗に
雅の心が吹き込まれます。

瓢の炭斗を見ると、いよいよ炉を開けるのだ
と実感できます。
炉開きを彩るお道具の一つです。

光悦会

2014-11-11 UP

11月 11日 光悦会

ご機嫌よろしゅうございます。
今日は京都で光悦会が開催されます。

光悦会は東京の大師会に並ぶ
日本の代表的な茶会です。
京都鷹峰の光悦寺において11月11,12,13日の3日間
五都の道具商が世話人となって催されます。

この茶会の舞台となる光悦寺は、
大虚山(たいきょざん)と号する日蓮宗のお寺です。
元和元年(1615)本阿弥光悦が、
徳川家康にこの地を与えられ一族、工匠等と移り住み、
芸術郷を築いていきました。
光悦は、刀剣鑑定のほか、書、陶芸、絵画、蒔絵などにも優れた
文化人で、光悦の死後、寺(日蓮宗)となりました。
境内には、大虚庵など7つの茶室があります。

さて遠州公と光悦にも縁がございます。

遠州公は寛永13年(1636) 5月21日に、品川林中の御茶屋を新しく造設し、
将軍家光をお迎えして献茶します。
その控えの茶碗として用いられたのが、
光悦に依頼して作製された、膳所光悦と呼ばれている茶碗で、
正式に遠州公が取り上げたのは二碗であると言われています。