11月 30日 南坊録
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は黒田藩立花実山の編著といわれている
「南坊録」のお話しをしたいと思います。
月 日に立花 実山についてお話しをしました。
黒田忠之の江戸参勤の折、共をしていた実山が
利休の言葉を伝える伝書なるものを見せられ、
その後実山が書き写したとされる「南坊録」
以前は利休の教えを伝える第一の書とされていましたが、
記載年号の間違いや、南坊という禅僧の存在の確証がないこと
などから、実山の作った偽書との疑いがもたれていました。
書中あるエピソードのなかには、利休が実際に話したこともあると思われますが
利休没後100年に実山が、乱れた茶の湯の世界を
憂い、実山の思い描く利休像が投影されて
いるとも考えられます。
今後の研究が待たれるところです。
松岡正剛氏の千夜千冊にも「南坊録」について
詳しく書かれています。
よろしければこちらもご覧下さい。
11月 29日 清水道閑(しみずどうかん)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は安土桃山・江戸初期の茶人である
清水道閑についてご紹介します。
1579年生まれ、遠州公と同じ年になります。
茶湯を遠州公とともに古田織部に学び、その後も
遠州公に茶を学ぶなど深い親交がありました。
その縁から遠州公の推薦で仙台藩に招聘され、
伊達政宗に五百石をもって茶頭に召し抱えられます。
出仕に際して遠州公が、「猿若」という銘の
茶入を贈ったことは有名です。
・ ・
とどめ さる わか れよ君か袖のうちに
我たましひを入れてこそやれ
猿若と呼ばれていた道閑にその言葉を織り込んだ歌を
添えています。
後に藩命で二代目道閑が石州に入門し、
その後石州流清水派が創立します。
慶安元年(1648)の11月29日69才で亡くなります。
11月 28日 遠州流の茶筅
ご機嫌よろしゅうございます。
一昨日遠州流の柄杓のお話しを致しました。
今日は茶筅のお話しを。
ほとんどのお道具は、季節が変わると、
それに合わせて大振りのもの小ぶりのものに
改めますが、茶筅は大きさを変える必要なく
通年使える茶道具です。
そして他の道具のような華やかさはありませんが
代用のきかない、重要な茶道具です。
煤竹・白竹など茶人や流儀の好みによって、様々な
色合いや穂先の形の茶筅があります。
遠州流の茶筅は白竹を使い、穂先の根元をかがる黒い糸の
結び目を見ると穂の内側で結ばれているのがわかります。
これは大変難しい技術ですが大きな特徴となっています。
ほとんどのお流儀ではこの結び目が表にでているので
遠州流の茶筅との見分け方はここをみれば
すぐわかります。
遠州公を流祖とする大名茶ならではの
手がこんだ茶筅です。
11月 27日 遠州好み「几帳面取り」
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州好みのお話しを。
遠州公が好んで作った道具には瀟洒で繊細な
形のものが多いですが、その印象を形作る
ものの一つに「几帳面取り」があります。
「几帳面」とは
器具の細工で、角をとって半円形のきざみをいれたもの。
几帳の柱に使ったことからいう。(「角川国語辞典」)
方形の角を撫で角に削り、その両側に段をつけたもの。
もと几帳の柱に多く用いたから。(「広辞苑」)
几帳面の言葉もここから由来するものですが、
遠州公の好んだ道具、特に炉用の棚などに
はこの「几帳面取り」の細工が多く見られます。
指で触らないとわからないくらいの繊細なものですが、
これを施すことによって、丸みがでて優しい
印象になるのです。
遠州好みの棚を見る機会がありましたら
柱を是非じっくりご覧になってみてください。
11月 26日 遠州流の柄杓
ご機嫌よろしゅうございます。
炉を開いてそろそろ一ヶ月。
お茶のお稽古をなさる方は、風炉のお点法から
炉の点法にようやくなれた頃でしょうか。
炉の季節になると、釜や水指、色々なものが
風炉に比べてやや大振りになります。
柄杓は・・・
遠州流の柄杓は他のお流儀で使用されているもの
より、大きく、一杯でおよそ5人分の濃茶を
点てることができます。
そしてお茶を練っている途中
その加減をみてお湯を加えるお流儀もありますが
遠州流では、お茶の香りをなるべく損なわない
ようにするため、加え柄杓をしないのです。
11月 25日 近衛信尹
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は江戸初期の公家・近衛信尹について
ご紹介したいと思います。
某人気コミックスで、豊徳合体を目指す織部が、
禁中で反徳川に燃える旗頭、前関白・近衛信尹を
「カリ」(今のカレー)でもてなすという
シーンが描かれていました。
この当時「カリ」が既にあったのかは謎ですが…
近衛信尹は関白や左大臣など歴任した重臣で、
後水尾天皇の生母の兄にあたります。
幼少時は武家との交流が深く、また織田信長に
可愛がられたこともあり公家社会に馴染めず
苦しみました。
朝鮮出兵の際、自らも朝鮮に向かおうとし
後陽成天皇の怒りを買い、薩摩に配流されるなど
波乱の多い人生だったようです。
若き日の松花堂昭乗が信尹に仕えていた時期もあります。
能書家として知られ、一派を形成し、近衞流、
または三藐院流と称されます。
本阿弥光悦、松花堂昭乗とともに
「寛永の三筆」に数えられる人物です。
慶長19年(1614)11月25日に亡くなります。
11月 24日 椿
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は旧暦の亥月亥日です。
風炉から炉の季節に変わり、床を彩る花も
草花から椿へ。
特にこの口切の季節には、白玉椿とよばれる
白くふっくらとした椿を入れることが
慣例となっています。
遠州公の時代にも白玉椿か、薄い色の
椿を使用した例が残っています。
この立派な椿を入れる花入も
やはり格調高い古銅や青磁などを用いて
茶の正月といわれる炉開きに清々しさを
与えます。
また、炭斗で使われる瓢の用意がない時などは
その代わりに、瓢の花入を用いることもあり、
遠州公が作った瓢の掛け花入も残っています。
11月 23日 勤労感謝の日
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は11月23日 勤労感謝の日
祝日です。
勤労感謝の日は、
「勤労をたっとび、生産を祝い、
国民たがいに感謝しあう」
という精神のもと1948年に制定されました。
これは戦前の「新嘗祭」の日を、そのまま
「勤労感謝の日」に改めたものと言われています。
「新嘗祭」は、古くから行われてきた重要な祭儀で
天皇が、その年にとれた新穀を天神地祇に供え、
農作物の収穫に感謝するとともに、
自らも初めて召し上がります。
同時に全国の農山漁村や、それぞれの地方で
神社に新穀を捧げ、その年の収穫を
神々に感謝し、収穫を喜び合う
全国民的な祭典でした。
そういう意味をもう一度考えて
今日は勤労、生産を祝うと共に、
毎日いただく米や野菜、食べ物への
感謝の気持ちも持ちたいと思います。
11月 22日 小雪(しょうせつ)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は二十四節気の「小雪」に当たります。
立冬から数えて15日目頃にあたり、
日差しもしだいに冬らしくなり、
鮮やかに染まった紅葉も
散り始める頃です。
逆に銀杏や柑橘類は黄色く色づき始めます。
暦便覧には
冷ゆるがゆえに、雨も雪となりてくだるがゆえなり
と記されています。
暦の上では、雪も降り始め本格的な冬を迎える頃、
東京ではこの時期雪をみることはなかなかありませんが、
北の地域では初雪の便りが聞声始めていますね。
11月 21日 一休宗純
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は頓知でおなじみの一休さんについての
お話しをしたいと思います。
ボサボサ頭に、ボーボーの髭
一休宗純は後小松天皇の御落胤とも言われていますが、
室町時代、風狂の精神の下で、形骸化した政治や仏教を
風刺するなど、形式にとらわれない行動と
人間らしい生き方が庶民の評判となります。
侘び茶の創始・村田珠光(じゅこう)も一休の門下になりました。
修行を行う中、「仏法も茶の湯のなかにあり」
という一休の教えを受け「茶禅一味」(茶も禅も同じ)
の悟りに達しました。
茶の湯だけではなく、花や連歌などをする多くの
文化人が一休の下に集い、その影響を受けたと
言われています。
一休が臨終の際に、弟子に
「これから先、どうしようもないくらい
困難なことが起きたら開けなさい。」
と、手紙を渡しました。
いよいよその時、弟子が手紙を開けると
中に書かれていた言葉は
「心配するな。大丈夫。 なんとかなる。」
だったとか。
文明十三年(1481)十一月二十一日の今日
八十八歳で亡くなります。