9月 20日 彼岸(ひがん)の入り
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は彼岸の入りです。
今日から中日の秋分の日をはさんで
26日までが秋の彼岸となります。
お彼岸には春と秋があり、
お彼岸については春のお彼岸の日にもふれましたが
仏教では、生死の海を渡り到達する悟りの世界を
「彼岸」といい、その反対側の迷いや煩悩に満ちた世界
(私たちがいる世界)を「此岸(しがん)」
と呼んでいます。
彼岸は西にあり、太陽が真東から昇って真西に沈む
秋分と春分は、彼岸と此岸がもっとも通じやすくなると
考えられています。
お彼岸にご先祖供養をするのはこのためです。
暑さ寒さも彼岸まで
近年の異常とも思える記録的な暑さも
ようやく落ち着いてくる頃でしょうか。
9月 19日桂離宮(かつらのりきゅう)
雲は晴れ 霧は消えゆく 四方の岑
中空清く すめる月かな
ご機嫌よろしゅうございます。
上の歌は
桂離宮を手がけたといわれる
八条宮智仁親王の歌です。
この桂離宮は遠州公の好みが色濃く伝わる
建物としても有名で、かつては遠州公作と言われていた時代もあります。
さて、この桂離宮は月と深い関係があります。
仲秋の名月の夜、正面に月が見えるように
作られた「月見台」
これは書院座敷から庭へ突き出るように設置されていて
月を見るための角度や形が計算されています。
また「月波楼」という名の茶室
「浮月」という手水鉢
襖の引手も月型です。
他にも月にちなんだものがたくさんあり
親王の月を愛する心が伝わってきます。
9月 18日 松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公と大変交流の深かった
松花堂昭乗についてお話しします。
遠州公の正室の妹が、中沼左京元知の妻となったことで
その左京の実弟であった松花堂との交流が始まります。
松花堂は十七歳で男山石清水八幡に登り、
滝本坊実乗に師事します。
寛永の三筆の一人に数えられ、遠州公、江月和尚との
合作も多く残り、その親交の深さが伺えます。
しかし、松花堂、中沼兄弟はどんなに親しくなった
間柄でも自分達の出自を決して語らなかったと
言われています。
遠州公五歳年少でしたが、遠州公より早く
五十六歳、9月18日に亡くなりました。
その死を悼み、遠州公がこんな歌を詠んでいます。
我をおきて先立つ人とかねてより
しらで契りし事ぞくやしき
9月 17日 秋の七草
ご機嫌よろしゅうございます。
春には春の七草と言って、七草粥をいただく
ことからも、その七草の種類をご存知の
方は多いことと思います。
同様に秋にも七草と言われるものがあり、
こちらは食べられませんが
山上憶良が万葉集の歌で詠ったことで有名です。
秋の野に
咲きたる花を指折り
かき数ふれば
七種(ななくさ)の花
萩の花 尾花 葛花 撫子の花
女郎花(おみなえし) また藤袴
朝貌(あさがお)の花
尾花はススキ
朝顔は当時まだ日本にありませんので桔梗の
ことをさすようです。
9月16日 流鏑馬(やぶさめ)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は鎌倉の鶴岡八幡宮で流鏑馬が
行われます。
鎧兜を纏った武士が、走る馬の上から
的を射る流鏑馬は、
平安時代から行われてきた弓馬礼法の一つと
され、鶴岡八幡宮の流鏑馬については
『吾妻鏡』に源頼朝が、放浪中の西行に流鏑馬の
教えを受け復活させたと記されており、
文治3年(1187年)8月15日に
鶴岡八幡宮の放生会が行われた際、
源頼朝が流鏑馬を催行したことから始まる
とされています。
放生会とは8月27日の虫聞きでもふれました通り
仏教の不殺生の思想に基づいて、
捕らえられた生き物を、山野や沼地に放って
供養する仏教の儀式です。
幕府が衰退していくまでは盛んに行われ、
流鏑馬の射手となるのは、当時
鎌倉武士の誉れであったそうです。
9月15日 敬老の日
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は敬老の日、祝日です。
この祝日は、長い間社会の為に尽くしてきた
高齢者を敬い、長寿を祝う日です。
ハッピーマンデー法の成立により、9月15日から
9月の第三月曜日に改正されました。
兵庫県のある村で行ったある取り組みから、
祝日に発展したこの「敬老の日」
はじめは「としよりの日」「老人の日」と名称に関して
議論が各地で起こり、1965年に現在の名称に定まりました。
「母の日」のように海外から入ってきた記念日とは異なり、
日本独自の祝日です。
この祝日の由来を
593年の9月15日に聖徳太子がが四天王寺に
悲田院(現在の高齢者施設のようなもの)
を建立した日とする説や
欽明天皇が養老の滝(貧しいきこりがお酒好きな祖父
のために泉から湧き出る酒を汲みにいった)
に御幸した日
とする説など諸説あるようです。
9月 14日 心に庵(いおり)を…
ご機嫌よろしゅうございます。
本日は遠州茶道宗家にて、許状授与式が
執り行われます。
受伝者の皆様おめでとございます。
この許状式では、全国から門人が集まり
準師範をはじめ、宗号・庵号を
お家元から直接いただきます。
宗号とは茶道の世界においては茶人としての名前といえるものです。
古へに茶を嗜むものは禅寺で修行を積んだことから由来するものであり、
許状式において御家元から詳しいお話をいただきます。
また庵号はその名の通り、茶室(庵)の名前です。
式中、お家元が受伝者に向けて贈られる
言葉の中に、こんな一節があります。
「庵を持たない方も心に庵を持って
日々の生活を送られて下さい。」
実際に茶室を持つ人も、そうでない人も
常に胸の中に茶の湯の心を意識して日常を過ごす…
それこそが茶の湯の真の修養であり
お家元からいただいた号に恥じない茶人と
なれるのではないかと思います。
9月13日 遠州公の愛した茶入
「廣澤(ひろさわ)」
ご機嫌よろしゅうございます。
本日は遠州蔵帳所載の茶入「廣澤」をご紹介します。
廣澤は千年を超える月の名所です。
釣鐘型のこの茶入は
澤の池の面に身をなして
見る人もなき秋の夜の月
という古歌にちなんで、
遠州公が銘をつけたとされています。
これほどの茶入を今まで見る人もなかった
という心からの銘とのこと。
この「廣澤」には蓋裏を銀紙で貼ると伝承されて
います。月の銘を持つ茶入に相応しい趣向です。
遠州公自身が茶会で使用した記録は見つからず、
内箱に金粉字形で「廣澤」と書き付けています。
遠州公所持の後、松平備前守、土屋相模守、
朽木近江守昌綱が所有。
松平不昧公が羨望したものの手に入れることが出来ず
天保の頃、姫路酒井家が所蔵。
現在は北村美術館に収蔵されています。
9月12日 遠州公と中興名物
ご機嫌よろしゅうございます。
茶入などの名物道具には
大名物、中興名物、名物という格付けがありますが、
その中で、遠州公といえば中興名物。
しかしこの中興名物という表現は遠州公の時代に確立していたわけではありません。
中興名物という表現で名物の一つとして格付けたのは
江戸時代後期の大名茶人である松平不昧公です。
つまり遠州公が亡くなってずっと後のこと。
不昧公は遠州公に深く傾倒し、その遠州公が、
名物道具として仕服牙蓋をはじめとする付属品を調べ、歌銘を付け
箱書きをした道具を中心に中興名物として自身の蔵帳に分類をされました。
徳川という平和な時代の到来とともに、
茶の湯を新しく嗜む人が増え、必然的に
茶道具も必要となりますが、しかるべき道具は既に
大名などの手に渡ってしまっているか、戦乱の中で焼失してしまっていました。
そんな中、当時茶の湯の第一人者としての地位を
築いていた遠州公は新たな名物茶道具の選定や指導を受けた
新しい茶道具を生みだしていくのでした。
遠州公の好みによって生み出された「綺麗さび」
の茶道具たち。
これらが後に中興名物と呼ばれるようになるわけです。
9月11日 厄日と台風
ご機嫌よろしゅうございます。
夏のうだるような暑さからまだ抜け切らない頃
ですが、今度は台風の到来です。
「二百十日」は、「彼岸」「土用」などと同じく
「雑節」の一つです。
「立春」から210日目(9月1日ごろ)をいいます。
この頃は稲の開花期にあたり、台風がよく来るので
農作にとっては厄日とされています。
そして今日は二百二十日(にひゃくはつか)
立春から数えて220日目
八朔(旧暦8月1日)、二百二十日とともに
台風の来襲しやすい時期として三代厄日として
昔から数えられてきました。
この頃に吹く風を「野分」と呼んでいます。
江戸時代季語としても盛んに詠まれました。
厳しさ、荒々しさをはらんだ秋の風です。
芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな 松尾芭蕉