4月 20日 穀雨(こくう)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は二十四節気の穀雨です。
春雨が百穀を潤すことから名づけられたもので、
雨で潤った田畑は種まきの好期を迎えます。
もとは、秋に種蒔きした麦類の生長を助ける雨のこと
を指し、麦は穂が出て実をつけるようになります。
のちに稲にも適用されるようになりました。
「清明になると雪が降らなくなり、
穀雨になると霜が降りることもなくなる」
といわれますが
変化の多い春の天気もこの頃からようやく安定し、
日差しも強まってきます。
昔から、この日に合わせて田畑の準備をするそうです。
また穀雨が終わる頃に八十八夜を迎えます。
いよいよ春から初夏へ向かう季節になりました。
この穀雨の恵みを受けて
山野は5月の美しい新緑の準備をしているのですね。
4月19日 遠州公の愛した茶入 春慶瓢箪(しゅんけいびょうたん)
ご機嫌よろしゅうございます。 今日は遠州蔵帳所載「春慶瓢箪」についてお話します。
春慶とは、瀬戸窯の初代である加藤四郎左衛門 (藤四郎)が、晩年に春慶と称してから作ったものであると言われてる 茶入れの一群です。 この茶入は形そのままに、遠州公が命銘したものです。
瓢箪の形については 遠州公の好みの形で昨日ご紹介させていただきました。
お茶会ではおよそ七回使用されていて、第一回を除いて いづれもお正月に使われています。
瓢箪という形は縁起の良い形です。 また遠州公が好んだ意匠でもあり、 遠州公が関係する様々なところで、この瓢箪の形を目にします。
4月 18日 瓢箪(ひょうたん)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公の好んだ形「瓢箪」について。
12日にもご紹介しました
薩摩の窯に注文して焼かせた「甫十瓢箪」
と呼ばれる茶入をはじめ
遠州公は瓢箪の形をとても好みました。
これは禅の教えとも関係があります。
水に浮かべた瓢箪は上から押すと、
一度は沈みますが、手を離すと別の場所に
ぽこっと浮かんできます。
「至りたる人の心は
そっとも(少しも)ものにとどまらぬことなり
水の上の瓢を押すがごときなり」
相手の心に逆らうのではなく、素直に意に従い
しかも自分の心というものは決してまげないという
「瓢箪の教え」からくるもののようです。
茶道具の他に、文様や透かしにも瓢箪を
多く用いています。
4月17日 徳川家康
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は4月17日
徳川家康の命日です。
家康の茶の湯に関する逸話はあまり見当たりませんが、
文禄元年頃の名護屋の陣営で、神谷宗湛を招き茶を振舞ったり、
慶長十六年(1611)には織田有楽斎を招いて楢柴肩衝で茶会を催したなど
当時の日記や文章をみてみると少しはあるようです。
しかし、通常家康が使用していた道具などは比較的素朴なものが多く
信長、秀吉に比べ、茶の湯に熱心であった様子は見受けられません。
江戸時代
家康によってようやく平和の世が訪れ、
それを維持する秩序が必要となりました。
茶の湯は武家の故実・礼法として修むべき教養となります。
この時代、遠州公は大名や、貴族など様々な肩書きを持った
人々が共に茶を喫するための
調和の美の茶の湯を創り出しました。
寛永十三年、将軍家光は、日光東照宮の大増築を行い、
4月17日の家康の命日に参詣しています。
これに随行した遠州公は
日の光 東を照らす 神風は
今日より君の 万代の声
と「日光東照神君」の文字を詠み込んだ和歌を作っています。
遠州公五十八歳の年です。
4月16日 長命寺の桜餅
ご機嫌よろしゅうございます。
お花見のシーズンになると店先に並べられる「桜餅」。
今日は有名な「長命寺の桜餅」についてお話しします。
桜葉三枚に包まれた薄皮の桜餅
江戸時代に生まれた
花見とともに愛されるお菓子です。
向島の長命寺の寺男だった山本新六が
堤の桜の葉を何かに使えないものかと考え、
まず作ってみたのが桜の葉のしょうゆ漬けでした。
しかしこれはあまり売れず、次に作ったのが
薄い小麦粉の皮に餡を包み、桜の葉を塩漬けにして
巻いた桜餅。
これは大変人気がでて、1日700個以上売れたとか。
それから約300年、隅田堤の桜と共に名物となり
その人気は現在まで続いています。
ちなみに明治の俳聖正岡子規は若い頃
この長命寺のお店の二階に下宿しており、
その娘と恋の噂が立ったそうです。
桜餅屋の2階で書いた子規の手書き文集「七草集」には、
娘を主人公にした戯曲や恋の短歌などが書き連ねられています。
さてこの桜餅、葉を残すか食べるか
好みのわかれるところです。
お店によっては、皮ごとを勧めるところもあれば
葉は外して、桜餅に残った香りを楽しむことを
勧めるお店もあるようです。
4月15日 梅若(うめわか)の涙雨(なみだあめ)
旧暦3月15日の江戸は
雨になることが多かったといいます。
この日に降る雨を
「梅若の涙雨」と言っていました。
謡曲「隅田川」の梅若丸は、
大変頭の良い稚児でしたが、寺院内での争いに悩み
京都の寺をこっそり抜け出したところ、
人買いに誘拐されてしまいます。
東国へ連れていかれる途中に病気になり
隅田川のほとりに捨てられます。
それを哀れんだ土地の人達の、手当ての甲斐も虚しく
梅若は3月15日に息を引き取ります。
たずねきて問はば答えよ都鳥
すみだ川原の露と消えぬと
我が子の死を知った母はこの地で剃髪し、妙亀尼と名乗り
庵を立てて念仏三昧の日々を送ります。
それから3年後、池の水に映る我が子の姿をみてそのまま飛び込み
死んでしまったといいます。
現在も隅田川のほとりには梅若を祀る木母寺に
梅若塚が建てられています。
4月14日 世の中に
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は桜にちなんだ和歌をご紹介します。
世の中に たえて桜のなかりせば
春の心はのどけからまし
よく知られた在原業平の和歌です。
この世の中に全く桜というものが無かったならば、
咲くのを待ちどおしがったり、散るのを惜しんだりすることもなく
春を過ごす心はのどかであったろうよ。
伊勢物語では
業平が交野(かたの)で惟喬親王の狩のお供をして
そのあと桜の下での酒宴で詠まれた歌と書かれています。
待ち焦がれた春と桜の花
しかし散り急ぐ桜に心は急かされ、いっそなければ…
と、心うらはらの気持ちがよくあらわれています。
返歌が後に続きます。
散ればこそ いとど桜はめでたけれ
憂き世になにか久しかるべき
散るからこそいっそう桜はすばらしいのだ。
この世界に永遠のものなどあるだろうか…
春が来たよと教えるように桜は花を咲かせ
そしてはらはらとその花弁を舞わせて散っていきます。
千年以上前の日本人も、今を生きる私たちも
同じ心でこの桜の姿を見て
心を動かされていることを感じさせてくれます。
4月13日 遠州公の茶の湯はじめ
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は大河ドラマ「軍師官兵衛」の時代
当時の遠州公についてのお話しをさせていただきます。
文禄四年(1595)
秀長の後仕えた羽柴秀保が亡くなり、
大和大納言家はここに滅びます。
遠州公の父、新介正次は秀吉の直参となり
伏見に居を移します。
父に伴い移動したこの伏見での
古田織部との出会いが遠州公の人生を、
決定づけるものとなりました。
文禄二年(1593)
遠州公15歳
この頃に遠州公は古田織部に茶道を習いだしたとされています。
古田織部は利休亡き後、
茶の湯の第一人者として活躍していました。
14歳の時にはすでに
松屋の「鷺の絵」を茶会にて拝見していたことが
記録でわかっています。
この「鷺の絵」についてはまた後日お話したいと思います。
4月12日 遠州公の愛した茶入「玉水」
薩摩 「甫十瓢箪」
遠州公は数多くの国焼きを指導をしています。
薩摩焼でも
遠州公がお好みになられ作らせた十個の茶入を
遠州公の号の宗甫と、数の十にちなんで
「甫十」と呼んでいます。
いずれも茶入の底に「甫十」の彫銘があり
瓢箪形の耳付小茶入とされています。
耳付については昨日御紹介させていただきましたが、
この茶入の胴部分二方が耳を示しています。
新古今和歌集 春歌である
つくづくと 春のながめの 寂しさは
しのぶにつたふ 軒の玉水
から名付けられました。
4月11日 耳付(みみつき)
ご機嫌よろしゅうございます。
今日は遠州公のお好みになられた形の一つ
「耳付」をご紹介します。
遠州公以前にも見られた意匠ですが、
遠州公は上の方に小さなアクセントのように
耳をつけた瀟洒な形を好みました。
茶入の小さな耳、笹葉をした耳、遠州茶道宗家の紋である七宝形、
弦(つる)耳、
花入や水指の管耳、福耳、釜の笛耳など、いずれも
優雅な意匠をたたえています。
耳付きの茶入には
丹波「生埜(いくの)」「立花」
膳所の「大江」、薩摩の「甫十」「甫五」
など優れた作品が多く残ります。