皆様ご機嫌よろしゅうございます
本日は遠州茶道宗家で炉開きが行われます。
《亥の子餅》
5日はいわゆる旧の「亥の子餅」「炉開き」の日です。
旧暦では10月3日にあたります。
古来の風習は西が中心でありました。
そのため、古来から行われていたこの風習の月日は、江戸開府以前の、関西の気候風土より定められたものであるといえます。
関東以北では、この日以前から既に寒くなっておりますので「亥の子餅」を食べ、この日に炉を開ける習慣は関東にはなく、一部の人々を除いて、一般的ではないと言えます。
ちなみにこの古来からの風習における「炉」とは、茶道における炉ではなく、炬燵や火鉢などのことを指します。
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
11月4日は小堀宗吟先生の祥月命日です。
宗吟先生は先代紅心宗匠の母、当代宗実御家元の祖母にあたる方で、長年遠州流茶道の発展にご尽力されました。
《人物:小堀宗吟》
11代其心庵宗明宗匠の妻である宗吟先生は、戦前から数多くの出張稽古をされ、戦時中においてはモンペ姿でも全国をまわるなど、亡くなるその日まで遠州流茶道全体の育成に努められました。
また先代紅心宗匠、またその御兄弟の目には、大変厳しい母親として映ることもありましたが、何事も最後までやり遂げ、人を激励し続ける姿は「勤勉努力、実践垂範」の人として尊崇されました。
昭和44年、宗吟先生と紅心宗匠は広島の全国大会へご出張の際、宮島の旅館で紅葉を眺められました。
それが二人でご一緒された最後の風景となり、その後、亡き母を偲び、と紅心宗匠は歌を詠まれています。
「想いでは 唯ほほえみの母の顔 紅葉に映えて 美しく見ゆ」
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
11月3日は一の酉の日。
本日は酉の日についてお話したいと思います。
《酉の日》
古来より十二支は年月・時刻・方位に当てはめられ、それは日にも対応しており、11月はその酉の日に酉の市が寺社で行われます。
今年は三の酉まであります。
三の酉とは、月の始めに酉の日がくれば、酉の日が一月で三回くるときがあり、三の酉がある年は、火事が多いとされ、年末にかけて「火の用心」の心がけが肝腎です。
11月に酉の日を祭る由来は、神道や仏教によって異なり、またこの信仰は関東特有のものともされ、あまり西では見られません。
酉の市では「鷲が獲物を捕らえる爪」を模した熊手が、「福集める」縁起物として売られています。
他にも「頭の芋」や、「切山椒」といった縁起のある食べ物も売られ、関東を中心に、様々な寺社が大勢の人で賑やかになります。
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
本日は72侯についてお話し致します。
《72侯について》
72侯は、一年の太陽の周期を24等分した24節季をさらに3つに分け、丁度その頃に合った季節を表す「花鳥風月」の表現から季節の特徴を挙げたものです。
旧暦の時代は、月の運行による「暦」と、太陽による四季の変化との季節のズレを、24節季で訂正していました。
24節季が「春分」や「立冬」のように「2字」で簡潔に記されるのに対して、72侯は分かりやすく表現されているため、たいへん親しみやすいと言えます。
また、72侯は幾種類もあり、代表的なものを挙げると「宣享暦」「貞享暦」「宝暦暦」「寛政暦」「略本暦」などです。
前回までの72侯は明治7年(1874)に改訂された「略本暦」を基としておりましたが、これからは上記より季節に合った暦を選んでお伝えしていきます。
皆様ごきげんよろしゅうございます。
いよいよ11月になりました。
日本の暦では11月を霜月と言います。
今日は霜月の語源などについてお話し致します。
《暦:霜月》
「霜月」の語源は『奥義抄』の中に「十一月(しもつき)、霜しきりにふるゆえに、霜降月というを誤れり」とあり、霜降月の変化したものと言われています。
また霜月の他にも、神帰月、神楽月、雪待月、仲冬、子月、つゆこもりの月、雪見月、広寒月、食物月など様々な名称があります。
この中で特徴的なのは、食物月(をしものつき)です。
霜月の語源も、この食物月が縮まったとする説があります。
11月には新嘗祭などの収穫を祝う行事が多くあり、それらを食べる月として「をしものつき」という名が付いたと言われています。
そして普段一般的に誰もが使用する「食物(たべもの)」という言葉ですが、これはもともとは「多米都物(タメツモノ)」といい、米などの収穫物にあてられたものです。
魚や鳥などの類は「美物(ビブツ)」といい、その点からみても、「収穫」ということを意識して11月の名称を「食物」としたことに、昔の人々が霜月を感謝の月として大切にしていたことが分かります。
美味しいものが増える季節。
体調管理にも十分お気を付け下さい。
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
本日は空中茶室についてお話いたします。
《建築物:閑雲軒》
京都の八幡市にあります石清水八幡宮の境内には、遠州と大変仲の良かった松花堂昭乗が宿坊を務めた滝本坊があります。
松花堂は石清水八幡の僧侶で、17歳の時から修行を始め、政界のフィクサーとして活躍しました。
出生については、霧に覆われたように謎めいており、兄の中沼左京と共に、二人の親族について年月日以外まったく分かっておりません。
そのことについて二人はどんなに親しくした人物にも終生語ることはなく、意識して隠し続けたのだと思われます。
ただ、彼が(もちろん中沼左京も)暗い人物であったかというとそうではなく、大変人に愛される人柄で、亡くなった時には多くの人々が悲しみを表しました。
遠州も、旅日記や歌の中で、「松花堂がまだ生きていてくれたら、こんなに寂しい想いはしなかったのに」という、悲しみや寂しさ、悔しさなどを込めて詠んでいます。
そんな松花堂と遠州が共に作った茶室、それが滝本坊にある「閑雲軒」という空中茶室です。
崖から迫り出す設計で造られたその茶室は、7mもの柱で支えられ、中に入って窓から景色を見れば、まさに空中に浮かんだように感じられたでしょう。
現在ではその姿を見ることは叶いませんが、屋敷跡が残されており、当時を知るうえで、貴重な資料として保存されています。
皆様ごきげんよろしゅうございます。
本日は茶壺道中についてお話いたします。
《季節の行事:茶壺道中》
茶壺道中とは、宇治の抹茶が茶壺に詰められて運ばれるその行程のことです。
徳川幕府が寛永9年(1632)に正式に制定。
毎年選ばれた採茶師2名がそれを監督します。
採茶師は4月から5月初めに、幕府の御物茶壺を携えて江戸を出発し、20日程で宇治に到着します。
宇治茶師頭取上林家の庭にある茶壺蔵に厳重に保管され、不寝番(ねずばん)も付けられました。
その後2日間にわたって茶詰が行われます。
御物茶壺は1壺あたり黄金1枚が与えられたので、黄金詰、または大判詰とも呼ばれました。
到着してから20日程のち、採茶師たちは往路の数倍の茶壺を携えて宇治を出発。
採茶師の一行の人数は約500人にものぼり、厳重な警備のもと、江戸へ運ばれました。
茶壺が通行する道は、街道沿いの村人たちによって掃除が命じられ、田畑の耕作も禁じられました。
「ずいずいずっころばし」のわらべ歌は、繁忙期の農民たちが茶壺道中を風刺した歌ともいわれています。
後に倹約令が出され、茶壺の数も一行の人数も大幅に減らされることとなりますが、10万石の格式のあるものとして、江戸後期まで続いた。
皆様ごきげんよろしゅうございます。
本日は遠州流茶道の支部の1つである男鹿支部についてお話します。
《支部:男鹿支部》
昭和38年に、秋田県男鹿市で発足した男鹿支部は、先代の紅心宗匠が家元を継承した後に初めて発会した支部です。
これまで昭和48年と、平成元年に2回全国大会を開催しており、多くの会員数を誇る支部として長く活動されてきました。
男鹿支部のある男鹿半島は出羽山脈の西端に位置し、長い時を経て島から半島になったもので、鯛、サザエ、アワビなどの海の幸と、梨、メロンなどの山の幸に恵まれ、奇勝絶景の地域として知られています。
また、なまはげのゆかりの地でもあり、毎年冬に祭りが開催され、多くの観光客が訪れています。
今年は発会から50年の節目の年。
これからのさらなる発展に期待がされています。
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
本日から、暦が変わります。
《七十二候:霎時施(こさめときどきふる)》
長い小雨がしとしとと降り始める季節となります。
秋の雨は冷たく、物悲しく、空もどこか灰色がかった雲でうっすらと覆われ、これから始まる冬に向けて、なだらかに下降しているような気分になります。
秋雨は、梅雨とは異なり、始まりと終わりが曖昧で、また台風と相まって大雨となる事もあり、表情が変わりやすく、寒暖の差にも注意が必要です。
ただこの時期の雨は、アジア周辺まで含めた広範囲で起こる梅雨とは異なり、日本特有のもので、もののあはれを表す季語として様々な歌や詩などで大切に扱われてきました。
先代紅心宗匠の即興歌、写生を集めた『紅心集』にも、秋の雨を詠んだ歌が収録されています。
今から30年ほど前、昭和52年に行われた富山支部全国大会での即興歌を少しだけご紹介致します。
夜来秋雨過天遠晴
心清而喫茶見立山
やらいしゅううすぎて てんとおくはれ
こころきよくして ちゃをきっし
たてやまをみる
秋も晴れ 心もはれて秋晴れの
空すみわたり 立山の見ゆ
雨ぐもの 晴間に見する剣獄(つるぎだけ)
気高く聳(そび)ゆその山かげは
弥陀の原 秋たけなわに染め分けて
千種の色の いよようるわし
では明日もまた宜しくお願い致します。
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
本日はいよいよ近づいてきた炉開きについてお送り致します。
《季節の行事:炉開き》
炉開きとは、慣習として旧暦の10月に行われ、半年の炉の使用の無事を祈念して亭主が炭点法を行う儀式です。
遠州流では、床の間には瓶子に御酒を供え、三宝に土器(かわらけ)を置き、塩と洗米、鰹節を載せて用意します。
炉には下火だけ入れ、点法の際に、下火の周りに塩を撒いて清め、山の幸の代表として米、海の幸として鰹節を順次撒いて、かしわ手を打ち、皆で炉開きを祝うのです。
この炉開きの際に、初めてその年の新茶が入った茶壺の封紙が切られ、喫せられることになります。
昔の茶人は「一生に一度口切茶事に招かれれば本望である」とさえ言い、何よりも炉開き・口切をめでたいものとしていました。
10月の名残りの侘びた雰囲気から一転し、華やかなしつらえとなります。
掛物は格調の高い墨蹟、花入れは古銅や青磁などが好まれます。
しかし特にそれは決められたものではなく、道具の取り合わせによって自由に変更しても良いとされています。
ちなみに、炉開きを行う日は、旧暦の10月の亥の日であったり、庭に植えた定めた樹の葉の色が具合によってであったりなど、定まっていません。
しかし、いずれにせよ「無事」と、「祝い」を皆で祈る儀式には変わりはなく、茶道ではたいへん重要な日とされています。