皆様ご機嫌よろしゅうございます。
本日は季節の花、山茶花(さざんか)についてお話いたします。
《季節の花:山茶花》
山茶花は、その年の気候によってかなり早く咲き始めることもありますが、あまり暖かな季節にふさわしい花とはいえません。
やはり秋風が冷たさを一層加えて、木枯しの吹きすさぶ頃が、まさにこの花の色が美しく映えてくるといえます。
山茶花は、ツバキ科の常緑小高木で、日本及び中国が原産とされ、現在は80種ほどの園芸種もあります。
ツバキ科の中では、最もよく椿に似ており、この実から採れる「さざんか油」もまた「つばき油」と同じ不乾性油で、髪や皮膚に付けると、抜け毛や毛切れ、裂毛を防ぎ、皮膚の炎症を抑え、フケや痒みなどを防止する効能があります。
また、食用としても良いし、時計などの精密機器用の潤滑油としても効果があるので、ほとんど「つばき油」と同じ性質を持っています。
この山茶花という、少し無理のある読ませ方をする名前ですが、もとは椿の漢名(中国の名)である「山茶(さんちゃ)」の「山茶花(さんさか)」の字音が変化したもの、というのが一定の説となっております。
春に花を盛んに咲かせるのを「つばき・椿」とし、それに対し、木も葉も花も実も小振りで、主に、冬に盛んに花を咲かせるのを山茶花としていたとも言われ、一年を通して、人間の眼を楽しませてくれます。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
本日は、正座についてお話いたします。
≪茶の湯:正座≫
古来より座り方には、跪座(きざ:ひざまずく)、箕距(ききょ:なげあし)、胡坐(あぐら)、立膝、結跏趺坐(けっかふざ:あぐらの状態から両足を交差させた状態で両太ももにのせる座禅時の座り方)など、様々なものがありますが、正座という座り方を用いるのは世界でも日本のみとされています。
しかし、日本においても、正座が一般的な座り方として知られるようになったのは、一説によると江戸中期の元禄・享保頃からと言われております。
それまでは、胡坐で座る事が一般的で、重要な祭典や祭儀があるときに用いられました。
また、他国では拷問時に使用されることもあるほど負担のかかる座り方であり、畳が開発・普及されるまで、日本人にとっても、大変特殊な座り方とされていました。
畳は古事記に初出しますが、一般民家で使用されるようになったのは江戸時代中期以降であり、茶道の広がりと相まって、正座も認知・使用されていきます。
しかし、現代では、畳の部屋が減り、椅子の使用が増え、また学校などにおいては正座が罰則として用いられるなど、正座・畳を取り巻く環境が変化しており、特殊化されつつあります。
茶道とは切り離すことのできない正座というものとの対話が、今後望まれているように感じられます。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
新米がとても美味しいですね。
本日は新嘗祭です。
≪祝祭日:新嘗祭≫
新嘗祭は、天皇が新穀を天神地祇(てんじんちぎ)にすすめて、感謝の祭りをし、また自らも新穀を食せられる儀式です。
天神地祇とは、詳しい説明は避けますが、天津神、国津神のことで、「津(つ)」は「の」という意味であり、つまりは「天の神」、「国の神」に新穀を捧げる祭儀、ということです。
新嘗祭は数ある祭儀の中でも特に重要なものとされており、もとは天照大神が行ったと神話にあります。
飛鳥時代の皇極天皇の時から毎年11月に行われるようになり、一時中断する期間もありましたが、現在では毎年11月23日に伊勢神宮をはじめ、全国各地の神社で行われます。
祭典の方式は祭祀令の規定するところに従い、3つに分けられた儀式を天皇・皇太子が1日かけて行います。
全国の神社でも祭事は行われ、その年の収穫に感謝を捧げます。
ちなみに、唯一、出雲大社だけは、古伝新嘗祭といって他と異なる方式で祭事を行います。
もしご興味のある方は、参観できる神社もありますので、祭事にご参加されてみてはいかがでしょうか。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
本日は大灯国師・宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)の忌日です。
≪人物:大燈国師・宗峰妙超≫
大徳寺の開山であり、臨済宗大徳寺派の開祖として知られています。
また、宗峰妙超の師である大応国師・南浦紹明(なんぽしょうみょう)、また弟子である無相大師・関山慧玄(かんざんえげん)の三人を、現在の臨済宗の法系の祖として、【応・灯・関(おう・とう・かん)】と称しています。
また宗峰妙超の法嗣であり、大徳寺一世となった徹翁義亨(てっとうぎこう)は、晩年に徳禅寺を創建。
徳禅寺は応仁の乱で焼失してしまいますが、一休宗純によって復興します。
先述した【応灯関】の流れは、臨済宗、そして大徳寺を語るうえで忘れてはなりません。
のちに宗峰妙超を開祖とするのが【大徳寺派】、開山慧玄を開祖とするのが【妙心寺派】となりました。
毎年11月22日には、宗峰妙超を供養する開山忌が大徳寺であります。
普段は拝観できない法堂で行われるとのことで、多くの人々が集まります。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
本日は、「一休さん」という愛称で有名な一休宗純の命日です。
≪人物:一休宗純≫
侘び茶の祖・村田珠光の師とされ、また破格奔放で知られた一休は、茶人の間で大変尊敬されています。
現在、「一休寺」の愛称で知られている酬恩庵ですが、もとは南浦紹明が創建したあと荒廃したままであったのを、一休が宗祖の遺風を慕って堂宇を再興し、師恩に報いるという意味で「酬恩庵」と命名しました。
一休は応永元年(1394)に生まれ、それまでの戒律に縛られない風狂な生き方で天皇や民衆から愛され、晩年を酬恩庵で過ごし、文明13年(1481) 88歳で没しました。
出自は後小松天皇の御落胤とされており、現在、酬恩庵に置かれる一休の墓は宮内庁の管轄となっているため一般の立ち入りは禁止されています。
遠州の茶会にも、一休の墨蹟は茶会で度々掛けられており、そこに尊敬の念が見て取れます。
そして、酬恩庵の境内に黙々寺を建立し、晩年を過ごしたのが、遠州の親友であった佐川田喜六でありました。
豪胆な武人として知られ、関ヶ原の戦のあとには、石田方でありながらも徳川家康の重臣・永井直勝に招かれ、家臣に加えられました。
遠州と同い年で、遠州に茶の湯を学んだ佐川田喜六は風流人としても知られており、共通の友人である松花堂昭乗と共に交流を深めました。
佐川田喜六は寛永20年(1643) 8月3日に、黙々寺で没します。
酬恩庵を起点にすることによって、様々な繋がりを見て取ることができます。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
本日は遠州のあとに、将軍家茶道指南役となった片桐石州の命日です。
≪人物:片桐石州≫
片桐石州は慶長10年(1605)に大和小泉藩の初代藩主・片桐貞降の長男として生まれました。
賤ヶ岳の七本槍の1人である片桐且元の甥にあたります。
遠州より27歳年下で、関ヶ原の戦からも5年経ってからの誕生であり、当時の著名な茶人たちとは、一回り下の世代に属していました。
石州は千利休の実子である千道安の茶の流れを汲んでおり、道安の弟子である桑山宗仙に学んだと言われております。
やがて遠州の後、将軍家茶道指南役になる人物ですが、茶系としては千家の茶の流れであり、大名茶でありながらも、楽の茶碗を使用するなど、その特徴を随所にみることができます。
遠州の茶会には3回招かれており、他にも金森宗和や松花堂昭乗など、多くの茶人と交わりました。
寛文5年(1665)には、4代将軍徳川家綱の所望によって点前を披露し、その後、茶道指南役となり名を馳せます。
やがて石州を流祖として石州流が生まれ、江戸後期に『雲州蔵帳』を編纂した松平不昧や、大老であった井伊直弼がその流れとして知られております。
延宝元年(1673) 11月20日、69年の生涯を閉じました。
皆様ごきげんよろしゅうございます。
本日は鶉図についてお話いたします。
≪掛軸:鶉図≫
現在、根津美術館には国宝の李安忠の『鶉図』が展示されております。
李安忠は中国・南宋時代(12~13世紀)の画家で、「李安忠と言えば鶉、鶉と言えば李安忠」と呼ばれるほど、鶉に因んだ作品で有名です。
この『鶉図』は、日本には東山御物として請来し、足利将軍家に蔵されていました。
もともと、この『鶉図』には対をなしていた一幅がありました。
しかし、侘び茶の発展と共に、床の間の幅が狭まり、対幅の掛物を掛けられる茶室が減っていきます。
それによって対幅であったこの掛物も、一幅ずつ掛けられるようになり、時代が経つと各々に所有者が表れました。
よって、対幅の『鶉図』は一度離れ離れになってしまいます。
しかし、江戸初期になって、遠州によって書院造りの床の間が復活されると、遠州は真ん中に所持していた徽宗皇帝の鶺鴒を、左に李安忠の鶉を配し、右にそれと同じ寸法で、松花堂昭乗に竹雀の絵を描いてもらい、三幅対としました。
遠州蔵帳には三幅対として、以下のように記載されており、昨年の三溪園茶会では、蔀関月(しとみかんげつ)が写した三幅対が掛けられました。
「左・李安忠 鶉」
「中・徽宗皇帝筆 鶺鴒」
「右・松花堂昭乗筆 竹雀」
今では対幅や三幅対はそれほど珍しい飾り方ではなくなりましたが、拝見した際に、そこに遠州の知恵があったことを思い出せれば、と想います。
根津美術館には対幅であった『鶉図』の一幅が掛けられており、もう一幅は上記の三幅対となって個人像とされています。
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
本日は戸川宗積先生の御命日です。
≪命日:宗積先生≫
昭和24年9月5日、先代・紅心宗匠は4年間のシベリア抑留から解放、帰国されました。
その半年後、昭和25年3月19日に、音羽護国寺にて「宗慶」襲名披露の大茶会が開催されました。
そして茶会が終わり、夜の祝膳の時、紅心宗匠の御実弟・宗積先生はご両親、ご姉弟にこのように誓われました。
「己が命ある限り、遠州流茶道発展向上の為に全力を尽くします」
以来、宗積先生は、自己を律した厳しい御姿、分け隔てなく懇切丁寧にご教授される御姿で大勢の方から愛され、紅心宗匠の最も信頼する「宗家事務局長」としてご活躍されました。
慶應大学経済学部をご卒業され、その後就職されましたが、紅心宗匠の復員が遅れ、又、生死も不明であったことから、茶道の世界に身を置き、遠州流茶道の組織造りのために力を入れることとなりました。
その身を砕くほどの働きによって、シベリアからお帰りになった紅心宗匠の眼前には、既に「茶道遠州会(現・遠州茶道連盟)」の下地が出来上がっておりました。
今では51支部を数えるほどになった遠州流茶道の発展は、宗積先生の御尽力があったからこそだと言えます。
紅心宗匠は、宗積先生を追悼する文の中で、歌を詠まれています。
「道守り 其の身心を空となし
力つくして 今日ぞ散りゆく」
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
≪食べ物:白菜≫
お鍋の中でぐつぐつ煮える白菜に出会う季節となりました。
11月上旬に収穫期を迎える白菜は、お鍋はもちろん、漬物や煮物など、様々な形となって食卓に並びます。
原産は華北・満州で、結球白菜と、不結球白菜の二種があります。
日本には昔からあるように感じますが、なんと入ってきたのは明治8年(1875)、中国から東京博物館に出品されたのが始まりとされています。
その時には栽培に至りませんでしたが、その後、日清、日露戦争で出征した軍人が大陸で白菜を認識して帰り、栽培に成功しました。
白菜は現在、日本全土で栽培され、種類も、山東白菜、茨城白菜、愛知白菜など多種にわたります。
ちなみに台湾の故宮博物館の三大至宝の1つと言われているのが、「翠玉白菜」です。
半分が白、半分が緑のヒスイ輝石で、上部にはキリギリスとバッタが多産の象徴として彫刻されており、大変美しい作品です。
来年、東京国立博物館で開催される『台北・故宮博物院展』に海外で初めて出展されるとのことで、注目を集めています。
皆様ご機嫌よろしゅうございます。
昨日の七五三に因んで、千歳飴のお話をいたします。
≪食べ物:千歳飴≫
起源は、元和年中(1615~1624)、大坂で初めて水あめを作った豊臣家の平野甚右衛門が、江戸へ出て浅草寺の境内で売り始めたという説と、また元禄宝永のころ、江戸の飴売り七兵衛が、その飴を千歳飴あるいは寿命飴と呼んだのが初めてとする説の2つがあります。
梱包する袋には、鶴亀や、松竹梅、翁、大婆が描かれ、縁起の良い図案が載せられます。
また、飴が神社に結びつくのは、飴が供物であったからとされています。
細長い千歳飴を食べると長寿になるとされ、子の成長を願います。