数寄者とは
2013-10-9 UP
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
今から34年前の月刊『遠州 10月号』の、先代紅心宗匠が『数寄者とは』、と題して、前田利常公と、小堀遠州の茶の湯問答のことについて書いています。
本日は「数寄者」について、少しひも解いてみたいと思います。
茶湯問答の書状は利常公が「茶湯根本は何と仕たる所を数寄者と申候哉」と、遠州に御尋ねしているとこから始まります。
それに対し、紅心宗匠は遠州が
「目に見、耳に聞き、事にあたる時、自我が実態として存在すると考えて、それにとらわれ、自己主張に溺れる人が多い。全てを知り、全てを忘れてしまい、それらの執着心を捨て去る事が出来たならば、真の数寄者という事ができるのであろう」
と答えている、と意訳しています。
そして後日、遠州は前田邸へ単身出向き、「放下着(ほうげじゃく)」の話を交えながら、茶湯根本について話をしました。
この「放下着」とは、何もかもを脱ぎ去った境地のことを言います。
この「着」は「~せよ」の命令形の助辞で、「放下せよ、全てを捨てよ」という意味であり、これこそが茶湯の根本のひとつであると遠州は利常公に返事をしたのです。
紅心宗匠は最後に、「真の数寄者となる事は誠に困難な事であるが、日々の修練に依り、一歩でも遠州の心に近づきたいものである」と記して、筆を置いている。