茶の湯日記

不傳庵 茶の湯日記 

父と林屋先生

遠州茶道宗家十三世家元 小堀 宗実 

 先月号が休広忌特集で、8月号は林屋晴三先生追悼号となったので、今は亡きご両人について、今月は書いてみようと思う。

 紅心宗慶(以下・父)と林屋先生(以下・先生)が初めて出会ったのは、あまり正確ではないが、40代のころであったようだ。そのときはおたがい好印象でなかったと、あとになって先生から聞いている。私が推測すれば、その時代は二人ともずいぶんと尖んがっていたのではないだろうか(笑)。

 その後、年月を経て、茶の湯を通して交流をもつのは、父の華甲の歳からと思われる。もちろんそれまでに、すでに遠州に関しての展覧会などでよく顔を合わせてはいたが。この華甲の歳の茶事というのは、後年先生が私に「あれは宗慶老があなたのためにした……」とよく語っておられたもので、1年間、正月から歳暮まで12ヶ月、毎月取合せを替えた茶事であった。

 先生はこの年の初風炉の茶事に、正客として来庵された。このとき、最も印象に残ったものとして、土風炉の灰をあげられていた。「あれには驚嘆した。あのような美しい灰は見たことがない」と、晩年のころでも灰の話になると、いつもこのことをいっておられた。

 ご承知のように遠州流で使用する灰は「湿し灰」である。初風炉には真の灰形をするのであるが、これは風炉の前欠き部分の一文字の灰に、特に留意をしてつくる。その灰について、初入から会席を経ての炭点前、そして後入の濃茶終了までの灰の乾き方の変化を、誉めておられたのであった。

 後日談がある。この初風炉以降の数年は炉の茶事のお招きが続いたため、何年かして先生自ら、風炉の茶事を父に所望されたことがあった。私も水屋番として前回のこともあったので、やはり灰にはひとしお注意をしていたつもりであった。私にはいわないが、父にもその思いはあったのではないか。先生がことあるごとに、「遠州さんのところの灰はねぇ、遠州さんのはいいよ。あの湿し灰が……」と誉めるのを仄聞[そくぶん]していたと思うからである。

 ところが、そのときの灰については、茶事中には一切触れなかった。あとになって私に「ちょっと乾いていたんだよねぇ」といわれた。これには「ああ、そうだったのか」と、いささか私には頷くところがあった。

 このころの父の茶事は、昼の正午と、夕刻の六時と一日に昼夜二回行うことがあった。日数に限りがあるなかで、父も若かったし、私も本当に修行中、一度でも多くの経験をしたいときでもあった。昼に茶事をした場合でも、もちろん灰形はすべて取り除き、新しくつくり直す。これは炉、風炉ともにである。

 しかしながら、違いがあるとすれば、土風炉を昼に一回使用していることで、温まっているということである。したがって灰の乾き方もやや速くなるということになる。残念ながら先生を招いた風炉の茶事はこの場合の夜であったのだった。そういったわずかな違いを看破するのは、さすがであった。

 私がこの件を父に話したことがあった。そのとき父は、先生のことには触れず私に「あなたはよく気づきました。なんでも勉強ですね」とだけ、いったのであった。