茶の湯日記

不傳庵 茶の湯日記 

自分の力

遠州茶道宗家十三世家元 小堀 宗実 

 私の住居のある東京の今年の梅雨明けは、6月29日であった。これは、きわめて早い梅雨明けであり、観測史上初という冠がついている。そして一人の人間として体感的に、梅雨らしいと感じさせられる日々が少なかったと思うのは、私だけではないのではないか。一方、梅雨の期間中は、集中豪雨あるいは、私の嫌いな表現ではあるが″ゲリラ豪雨″が、全国各地においてさまざまな形での災害をもたらしている。また、地震も従来にまして多くなってきており、少々不安を覚えるというのも正直なところである。

 現代は、私たちの日常生活が、あらゆる場面において機械化、オートメーション化、あるいは電機化、電子化されている。ところが、いったん自然災害がおきれば、この便利な方法はいっぺんに不便なもの、無効力なものと化してしまうのである。先に大阪を中心に震度6の地震があった際にも、ほとんどの交通手段が一時ストップしてしまった。これは単純に、そのツールに被害が生じたわけではなく、その手段がはたして使用可能であるか否かの検査・点検に時間を要するからである。そして問題なしの判断が出るまでは、すべてのことが停止状態となってしまうのが現実である。

 私たち人間が、日常生活の多くのことを機械にゆだねているから、これはやむを得ない。いまさら、それらをやめることはできないのが現代だ。しかし私は、そうであるからこそ、人間としての力をもう一度確かなものにしておく必要性を感じている。つまり完全デジタルではなく、やはりアナログの部分を残しておくということを考えてみたい。

 いまのように、すべてが電子化されていると、例えばコンピュータの世界という高度な分野でなく、一般家庭での日常生活の範疇においても、ひとたび故障が発生すると、簡単には修理できないのである。一昔前であれば、ちょっとした不具合は、自分で直すことができるものも多かった。しかしいまは、重要な部分は、自分ではできなくなっていることも多いし、また自分勝手に触り、すべてのデータが消えてしまうといった心配もある。茶の湯の世界だけでなく、日本に長く今まで保存されているデータは、すべて紙と墨である。平安時代の掛物は、それ自体で千年のときを越えて存在している。これは机上の理論でなく実績である。紙か墨が劣化しない限りは元の状態で残っているのである。私がいいたいのは、電子データを否定するのではなく、こういう現実を踏まえたうえで、人間の頭脳のなか、思考の部分においては、絶対に機械に頼らない気持ちをもちたいということである。一つの例を挙げれば、人の記憶力は、もちろん一部の人を除いての話であるが、完全に劣化している。ちょっと前まで、私は知人の電話番号を少なくとも100人近くは記憶していた。ところがいまは、自分の番号すら忘れがちである。物に頼れば必ず利便さと同時に失うものもあるということ。私たちは自分でできること、しなければいけないことをもう一度考えるときに来ていると思うのである。