茶の湯日記10月

不傳庵 茶の湯日記 

無と有

遠州茶道宗家十三世家元 小堀 宗実 



 名残りの季節を迎え、それぞれの茶室や、稽古場の雰囲気も、真夏とは随分と様替りしていることと思われる。10月は、一般的には神無月の異称がもっとも親しまれていると思われるが、これが出雲地方にいくと神有月(神在月)と呼ばれている。元来は陰暦の10月に、全国の神々が出雲の国に集まり、一年のことを話し合うという説によるもので、大名茶人松平不昧自作の茶杓にも神在月銘のものがあるので、古来より地域による独自的な呼称が存在していたことがわかる。

 語源的にみると、ここで用いられた「無」の文字は、無いという意味より「な」が「の」にあたる助詞として使われているという説がある。そうなると神の月という意味として神無月が当てられたとも考えられ、日本語のもつ複合的な特徴がここにも見られるといえよう。有と無という文字は、そのままでは正反対だが、禅語の本来無一物に対して、宗家には、八世宗巾筆の横一行書に本来有一物という一軸がある。これを一体どのように解釈すればよいのであろうか。
 昔からこの掛物を床の間に掛けて、いつもなぜなのかと考えていたのであったが、最近になってようやくわかってきたような気がする。詳しくは申し上げられないが、床の間の前に黙って一礼して、解釈などにとらわれず座することこそ、大切なのではないかと思うようになった、ということである。そこに有無を求めていること自体がまだまだなのであると、掛物の五文字が私に語りかけてきているようである。

 日本には、こういったあたかも反対の意味をもつものがあり、単純にイエス・ノーで判断できないことが多い。結局それをどうとらえるかは、人の心の在り方であるという答えになってくるのである。正しいか誤りか、善か悪かについても、西洋的なものの見方や考え方では、どちらかの側に立たざるをえないが、日本は、その両方を往来するという方法があったのである。このあたりのことは、近著『日本の五感』のデュアルスタンダードのコラムにも述べているのであるが、現在までの日本を学び、これからの日本の在り方を考えてゆくためには、大切なことであると思う。

 さて終りになるが、この夏にリオデジャネイロで開催されたオリンピック(執筆段階ではパラリンピックはまだ行われていない)での日本人選手の活躍には、本当に感動させられ、目頭が熱くなる毎日であった。選手とそれを支える指導者、家族の姿を報道で知るにつけ、その苦労に対して頭の下がる思いであった。