皆様ご機嫌よろしゅうございます。
本日は京都大徳寺で江雲会茶会が催されています。
このお茶会の名に冠されている江雲宗龍についてお話いたします。
≪人物:江雲宗龍≫
江雲宗龍は、小堀家系譜によると、遠州の兄・池田七左衛門の子で、遠州の甥にあたる人物とされます。
小堀家の菩提寺である孤篷庵の開山・江月宗玩和尚に参じて法嗣となり、第一世としてそこに住しました。
当時の文化人と親しく交わり、特に千宗旦が息子である仙叟千室を前田家へ仕官するために江雲を通じて、遠州の弟・佐馬助正春に働きかけた事も『元伯宗旦文書』に残っており、重要な役割を担いました。
孤篷庵が完成してから5年後、江雲は大徳寺百八十四世となり、延宝7年(1679) 6月17日78歳で入寂し、円慧(えんね)霊通禅師の号を勅諭されました。
皆様、ご機嫌よろしゅうございます。
本日から神無月。
全国の神様が出雲へ集合する月です。
そのため、出雲だけは神有月と言われることはよく知られていることです。
遡ること370年、寛永20年(1643)10月1日は、江月宗玩が没した日でもあります。
江月宗玩は遠州より5歳年上で、天正2年(1574)に堺の豪商天王寺屋津田宗及の子として生まれ、春屋禅師のもとで頭角を表し、黒田長政の請に応じて大徳寺に龍光院を創設しました。
茶は遠州に学び、松花堂昭乗とは昵懇の間柄で、この両者との茶の湯の交渉はとても深いものでありました。
遠州との関わりで特筆すべきはやはり孤篷庵創建のことです。
現在の孤篷庵とは規模も性格も異なる最初の孤篷庵は、慶長17年(1612)、遠州34歳の秋に建てられました。
江月が遠州に建てるように勧め、黒田長政が援助をし、広大な龍光院の一角がその敷地となりました。
ちなみに黒田長政は遠州の11歳年上で、筑前福岡に52万石もの領地をもつ大名であり、弟子である速水頓斎を茶頭として黒田家に送るなど、茶の湯を通して深い関わりがありました。
遠州の生涯に大きな影響を与えたこの二人を結びつけたのが、春屋宗園禅師でした。
おそらく春屋禅師が、再三にわたり、遠州にも江月にも、また長政にも孤篷庵建立について話していたのではないだろうか、と推測できます。
慶長16年に春屋禅師は入寂します。
そして、その意志を実現すべく、三人は協力し、完成に至ることとなったのです。
孤篷庵の開山となった江月が住した龍光院には、曜変天目、鶴首茶入、丸壺茶入など、多くの名宝も伝来しております。
江月宗玩の茶の湯に対する愛好の深さが見て取れます。